武禹襄「太極拳解」を読む
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『中国太極拳事典』(参考文献1)によれば、「太極拳解」を以下の如く記している(抜粋)。
著名な太極拳論。作者は武禹襄。本篇は行拳と推手中の種々の要素を総合的に論述して、身心、動静、運勁、行気、頣養などに及ぶ、武禹襄の代表作品の一つである。原文は次の通り。(以下略)
武禹襄に関しては次の記述がある。
武禹襄
(ぶうじょう・ WuyuXiang)
1812〜1880年。著名な太極拳家、 “武式太極拳”の創始者。名は河清、“禹襄”は字。河北・永年の人。武術を好み、師の楊露禅から太極拳功夫を学ぶ。後に河南へ行き陳清萍から陳式新架を授得、また呉全佑の門下と有り再び拳芸を学ぶ。武禹襄は学習の中で理論の探究を非常に重視し、深く拳術と修行の意味を研究し、その技術体系が逐次に成熟完全となると同時に、理論水準も絶えず高まった。このような文武共修は、理論と用法を重視する方法で太極拳研究で顕著な成果を得、一代の大家に集成された。彼は陳、楊などの太極拳の構造を参考にして、また独特な理論、解釈を注ぎ込み、創編したものは基準が謹厳で、虚実は明らか、またゆるやかで活発な“武式太極拳”となった。伝えられる著作 は《十三勢行功心解》《太極拳解》《身法十要》《打手要言》《四字密訣》などがあり、みな太極拳理の研修に必読のものとなっている。
「太極拳解」(打手要言の第2段)は小論ではあるが、読みにくいと感じる部分もある。ここでは読み下し文を記して、理解の一助としたい。
- 「大極拳解」全文:底本は参考文献2(行番号は筆者付加)
身雖動, 心貴静, 気須斂, 神宜舒。(1)
心為令, 気為旗, 神為主帥, 身為駆使, 刻刻留意, 方有所得。(2)
先在心, 後在身。在身,則不知手之舞之足之踏之, 所謂一気呵成, 捨己従人, 引進落空, 四両撥千斤也。(3)
須知, 一動无有不動; 一静无有不静。(4)
視動猶静, 視静猶動, 内固精神, 外示安逸。(5)
須要従人, 不要由己。(6)
従人則活, 由己則滞。(7)
尚気者无力, 養気者純剛。(8)
彼不動, 己不動; 彼微動, 己先動。(9)
以己依人, 務要知己, 乃能随転随接; 以己粘人, 必須知人, 乃能不後不先。(10)
精神能提得起, 則无双重之虞; 粘依能跟得霊, 方見落空之妙。(11)
往復須分陰陽, 進退須有転合。機由己発, 力従人借。(12)
発勁須上下相随, 乃一往无敵; 立身須中正不偏, 方能八面支撑。(13)
静如山岳, 動若江河。邁歩如臨淵, 運勁如抽糸, 蓄勁如張弓, 発勁如放箭。(14)
行気如九曲珠, 无微不到; 運勁如百煉鋼, 何堅不摧。(15)
形如搏兎之鶻; 神似捕鼠之猫。(16)
曲中求直, 蓄而後発。収即是放, 連而不断。(17)
極柔軟, 然後極堅剛; 能粘依, 然後能霊活。(18)
気以直養而无害; 勁以曲蓄而有余。(19)
漸至物来順応, 是亦知止能得矣。(20)
- 「大極拳解」の読み下し文
身雖動, 心貴静, 気須斂, 神宜舒。(1)
身は動くといえども、心は静を貴ぶ。 気は須らく斂めるべく、神は宜しく舒ばすべし。
心為令, 気為旗, 神為主帥, 身為駆使, 刻刻留意, 方有所得。(2)
心は令を為し、気は旗を為し、神は主帥を為し、身は駆使を為す。 刻刻留意すれば方に得る所有り。
先在心, 後在身。在身,則不知手之舞之足之踏之, 所謂一気呵成, 捨己従人, 引進落空, 四両撥千斤也。(3)
先に心在りて、後に身在り。身在れば、則ち、手のこれを舞い、足のこれを踏むを知らず。所謂、一気呵成、捨己従人、引進落空、四両千斤を撥くなり。
須知, 一動无有不動; 一静无有不静。(4)
須らく知るべし、一動すれば動ならざる无し、一静すれば静ならざる无し。(无有:あるなし=なし)
視動猶静, 視静猶動, 内固精神, 外示安逸。(5)
動を猶お静のごとく視て、静を猶お動のごとく視る。内は精神を固め、外は安逸を示す。
須要従人, 不要由己。(6)
須らく人に従うを要すべく、己に由るを要さず。
従人則活, 由己則滞。(7)
人に従えば則ち活き、己に由れば則ち滞る。
尚気者无力, 養気者純剛。(8)
気を尚ぶ者は力无く、気を養う者は純剛なり。
彼不動, 己不動; 彼微動, 己先動。(9)
彼動かざれば己動かず。彼微動すれば己先に動く。
以己依人, 務要知己, 乃能随転随接; 以己粘人, 必須知人, 乃能不後不先。(10)
己を以て人に依り、務めて己を知るを要す、乃ち能く転に随い接に随う(随転随接す)。
己を以て人に粘じ、必ず須らく人を知るべし、乃ち能く後にならず先にならず(不後不先す)。
精神能提得起, 則无双重之虞; 粘依能跟得霊, 方見落空之妙。(11)
精神能く提げ起こし得れば、則ち双重の虞无し。
粘依能く跟い霊を得れば、方に落空の妙を見る。
(別読み:跟き)
往復須分陰陽, 進退須有転合。 機由己発, 力従人借。(12)
往くも復るも(往復)須らく陰陽に分けるべく、進むも退くも(進退)須らく転合有るべし。機は己より発し、力は人より借りる。
発勁須上下相随, 乃一往无敵; 立身須中正不偏, 方能八面支撑。(13)
勁を発する(発勁)は須らく上下相随すべし、乃ち一往すれば敵无し。
立身は須らく中正不偏なるべし、方に能く八面を支撑す。
静如山岳, 動若江河。邁歩如臨淵, 運勁如抽糸, 蓄勁如張弓, 発勁如放箭。(14)
静なること山岳の如し、動なること江河の若し。邁く歩みは淵に臨むが如し。
勁を運ぶ(運勁)は糸を抽くが如し。勁を蓄える(蓄勁)は弓を張るが如し。 勁を発する(発勁)は箭を放つが如し。
行気如九曲珠, 无微不到; 運勁如百煉鋼, 何堅不摧。(15)
気の行くは九曲珠の如くすれば、到らざる微无し。
勁の運び(運勁)は百煉鋼の如くすれば、何の堅きも摧けざらん。
形如搏兎之鶻; 神似捕鼠之猫。(16)
形は搏兎の鶻の如し。
神は捕鼠の猫の似し。
曲中求直, 蓄而後発。収即是放, 連而不断。(17)
曲中に直を求め、蓄えて後に発す。
収めれば即ち是れを放ち、連なりて断たず。
極柔軟, 然後極堅剛; 能粘依, 然後能霊活。(18)
柔軟を極めて、然る後に堅剛を極む。
能く粘依して、然る後に能く霊活す(霊かに活く)。
気以直養而无害; 勁以曲蓄而有余。(19)
直を以て気を養えば害无し。
曲を以て勁を蓄えれば余り有り。
漸至物来順応, 是亦知止能得矣。(20)
漸く物来たれば順応に至る、是れ亦止まるを知りて能く得るかな。
- 語句
斂:れん、おさめる。
神:精神、心。
舒:のばす、広げる、開く。
先在心, 後在身:まず心知(=会得)となり、後に身知(=体得)となる。
不知手之舞之足之踏之:参考:孟子(新釈漢文大系) 離婁章句凡二十八章p.275。
活:生気が発動する、いきいきしている。
務要:
務:努力して。できるだけ。
要:求める。せんとす。
粘:粘りのあるもので、 二つの物質を一つに貼り合わせて離れないようにする作用をさし、武術では相手と自分を貼りつけるように一つに合わせ、もがいても抜け出せず、相手を受身の態勢にもっていき攻撃しやすくすることを云う。
提:あげる(提、挙也:提は挙げるなり)。
跟:したがう(付)。
霊:すぐれたもの、よい、たくみ、あらたか、ききめがある、あきらか。
支撑:ささえる(支撐)。
箭:矢。
九曲珠:通過しにくい孔を持つ珠。工夫を凝らして難しい仕事をする比喩に使われる。
无微不到:細かい所まで心配りが及ぶ。
百煉鋼:何度もきたえられた鋼。
搏:つかむ、うつ。
搏兎:兎をつかむ。
捕鼠:鼠を捕える。
鶻:はやぶさ。滑らかで、すばしこい。
直:
曲中求直:この直は、「不弯曲」。
気以直養而无害:この直は、「公正合理」。
参考文献
1. 余功保、『中国太極拳事典』、ベースボール・マガジン社、2013年。
2. 唐豪・顧留馨、『太極拳研究』、人民体育出版社、1999年(初版1964年)。
3. 郭福厚、『太極拳推手訓練秘訣』、BABジャパン出版局、1999年。
4. 李亦畲、『王宗岳太極拳論』、北京科学技術出版社、2016年。
付けたり
「大極拳解」の内容理解に関連すると思われる諸知識(重要な術語にはインデックスをつけました)の簡略な説明を付加します。これは、筆者がweb公表した
「王宗岳「太極拳論」を読む」の第1章から抜粋して転載したものです。
捨己従人
人不知我、我独知人
懂勁
知己功夫
知己知彼
虚領頂勁、気沈丹田
立如平準、活似車輪
不偏不倚
忽隠忽現
虚実
左重則左虚、右重則右杳
陰陽相済
人剛我柔謂之走、我順人背謂之粘
察四両撥千斤之句、顕非力勝
隨曲就伸
双重之病未悟耳
偏沈則隨、双重則滞
欲避此病、須知陰陽
- 捨己従人(後発制人・後発先至・以静制動)
先に動く相手の動作に従って自分は後から付いて動いています。相手がどのように動くかを感じて、相手の動きを鋭敏な感覚で知覚して、その動きに従って(逆らわないように)自分が動きます。これを
「捨己従人」(己を捨てて、人(相手)に従う)
と云います。
同じ事を言い換えれば、「後発制人」(後から発して人を制す)、あるいは「後発先至」(後から発して先に至る)、「以静制動」(静を以て動を制す)とも云えます。
自分の力が相手に比べて弱い事を前提にすれば、この方法(相手の動作に追随して逃げ回り、相手がバランスを崩した瞬間に、少しの力で相手を破る)が必勝法となるでしょう。
- 人不知我、我独知人
自分は、自分の技量を知り、相手の運動を予測して相手に従いますが、相手は、我を知らない為にバランスを崩すわけです。こうなれば、
「人不知我、我独知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而及也」(人、我を知らず、我独り人を知る。英雄の向かうところ敵無きは、蓋し皆これによりて及ぶなり)
となります。相手が我を知らないのは、我は相手の動きに従ってまるで先んじるように動くからです。即ち、「以静制動」「捨己従人」を実践するからです。
- 懂勁
ここまで記したように、弱者が強者に勝つ為には、技で勝負しなければならない事が強調されています。従って、必要となるべき技を磨く事が毎日の練習の最も重要な課題となります。この技(功夫----技術レベル)を悟る事を
「懂勁」
と呼んでいます。これは勁を懂るという意味です。
この「勁」とは、太極拳特有の言い方ですが、『中国太極拳事典』では次のように説明しています(参考文献1)。
勁:太極拳の特殊力学構造。一定の訓練程式と方法を通して、力の大小、方向、作用点と動態の伝わりなどが高まり、改善される。これは一種の昇華された力である。(抜粋)
簡単に云えば、太極拳の中で用いられる我彼の強さの目処となる「力」を云います。
「力」と云えば、普通はその瞬時の力の大きさを指しますが、私見を記せば、太極拳の中では、ある微小な時間幅の中で認識出来る「力の動き(推移)」を云います。ベクトルとしての力(力の大きさと方向)と、更に、その力を与える為に動く物(手など)の速度(スピードと方向)を含みます。
この事を次のように表現しています(参考文献3、p.18)。
相手の勁を正しく認識する事を「聴勁」と云います。聴勁とは、相手と触れた瞬間に、相手の力の方向、目標、ストロークの長短、力量の大小を正確に判断する事です。
聴勁を正しく素速く行う為には、前提として、自分の正確な姿勢と動作が意を以て行える事が必要です。例えば、長さを正しく測定する為には、正しい物差しを正しく使わなければなりません。自分の物差しを正しくして、且つ、意識を以て正しく運用出来なければいけません。この事を
「知己功夫」(己れの功夫(技術レベル)を知る)
と云います。
相手をよく知る事は「知彼功夫」(彼の功夫(技術レベル)を知る)と云います。「知彼功夫」に必要となるのが、「聴勁」の高いレベルと云えましょう。
従って、日々の練習には、
「知己知彼」(己れを知り、相手を知る)
が必要となります。
更に、自分の物差しを正しくするという意味で、自分の正確な姿勢が出発点となります。
- 「虚領頂勁、気沈丹田」
(頂勁を虚領にして、気は丹田に沈む)
虚領頂勁:太極拳の練習要領。また"虚霊頂勁"とも書く。虚霊頂勁になるには、身形上の要求については、脊椎はゆるめてまっすぐ、両肩は平らに穏やかで端正に、うなじを立てて、頭頂の百会はやや上へまとめ上げるように、下顎はわずかに内へ収め、全身はリラックスして、両足は平らに地を踏み、頭頂は天にあり、足は地に入る感じである。虚霊頂勁の本質は更にもうひとつの状態を指し、その状態の下で、身体を展開して精神・意識を充満すれば、筋骨皮の訓練と同時に、精気神も鍛錬できる。拳の訓練のたびに起勢からこの状態で始めれば、収勢で終わるときは整っている。《十三勢歌訣》中にいう"尾閭中正神貫頂、満身軽利頂頭懸(尾閭は中正にし、神は頂を貫く、満〈全〉身は軽利で 頭は頂から懸ける)"はこの意味を指す。(参考文献1、抜粋)
虚:虚にして、上にひっぱられる感じ。
領:率いる。
頂:頭のてっぺん。
勁:力。
気沈丹田:ここでいう丹田とは小腹部。気沈丹田とはすなわち"実腹"である。"丹田"は 中国伝統内功の"気海"を修め、"気沈丹田"は全身に気を巡らせることの核心条件である。(参考文献1、抜粋)
簡単に云えば、精神と肉体ともに力を抜いてまっすぐ立ちなさいという事でしょうか。
このような正しい動作がどのように見えるかを喩えて表現しています。
- 「立如平準、活似車輪。」
(立てば平準の如く、活けば車輪に似たり。)
立つ姿は天秤のごとくバランスよく立身中正で左右のバランスに鋭敏であり、動けば、車輪のような滑らかな回転(円運動のごとき)を示す。
更に、動作が保つべき原則が述べられています。
- 「不偏不倚」(偏せず倚らず)
かたよらず、寄りかからずですから、体(あるいは技など含む全て)がバランスを保つように、重心は中正を保つようにということでしょう。易経では、「中正」(あるいは「正中」)とは、あるべき場所(真ん中の位置)にあるべき物が位置すると云う事で、最も尊重される状態と云えます。
- 忽隠忽現
聴勁が上達して、神明に及ぶほどになれば、相手の緩急を混じえたどのような動きにも追随する事が出来るようになります。このレベルを「太極拳論」は次のように描写します。
「動急則急応、動緩則緩隨」(動くこと急なれば、則ち急にして応ず。動くこと緩なれば、則ち緩にして随う。)
相手が速く動けば、自分も速く動き、相手がゆっくり動けば、こちらもそれに従う。
もとの道理とは、「捨己従人・以静制動・用意不用力」などの太極拳の基本的な考え方の根底にある道理を云います。具体的には、「虚実転化の法則」・「陰陽相済」等の陰陽に関わるフレーズで表されます。「太極拳論」は具体例を以て示していますので、以下に紹介します。
- 虚実
一貫する道理の具体例を「太極拳論」は記述しています。
「左重則左虚、右重則右杳」(左重ければ則ち左は虚ろ、右重ければ則ち右は杳し)
左(手)に相手の重さを感じたならば、左側が崩れやすくなるので、そうならない為に左を虚にする。右が重く感じれば、右を虚にして、相手からは暗闇と同じように見えなくする。
重く感じるような剛の力で相手が向かってきたら、自分の状態を虚にしなさいと述べています。虚は実に対応して、次のような事です。
虚:重さが加わっていない状態。ほとんど無力状態とも云える。
実:重さが加わっている状態。
体の重心が左足にかかっていれば、左足を実と云い、右足を虚と云う。相手の攻撃があれば、即座に(対応する部分を)虚にする事によって相手から見えないようにして、相手の攻撃を無力化しなさいと述べています。虚実は、手足や全身(重心)に対して考えられます。
この例を逆に考えれば、実のままの状態ならば、相手の攻撃に破れるという事になります。具体的には、力に対して力で対抗するので、破れるのです。実であれば、相手に対応して変化する事が出来ないわけです。一方、相手を攻撃する場合には、こちらが実にならなければいけない事がわかります。即ち、実と虚は素速く入れ替わらなければなりません。これを
「虚実転化」
と云います。更に、虚になり過ぎても実になりすぎてもバランスがくずれてしまう事は容易に理解できます。
と云い、虚実が全体として中庸を保つ事を
「陰陽相済」
と云います。
「陰陽相済」と呼ぶのは、易経の中で陰陽を象る相対する二つの事象は、中庸を保つ事が最良である事が多いと云う考え方に対応しています。この場合には、「虚の状態」を「陰」として、「実の状態」を「陽」として象っています。
「後発先至」で、先に至る(攻撃する)事ができる為には、神明に至るほどの格別の技が必要な事は云うまでもありません。
- 剛柔と攻守
太極拳は武術ですので、「太極拳論」は攻守の基本に言及します。
「人剛我柔謂之走、我順人背謂之粘」(人、剛にして、我、柔なる、これを走という。 我、順にして、人、背なる、これを粘という)
相手が剛で我は柔であれば走となり、我が順で相手が背であれば粘となる。
相手が強い力(剛)で攻撃して来たときに、自分は柔で対応すれば、それを防御(走)とする。自分が順当で安定した状態であって、相手の姿勢や状態が順当でなくバランスを崩している状態あれば、攻撃が可能(粘)なポジションとなる。
走と粘は太極拳特有の術語であり、密接に連動しています。走のある瞬間に、相手がミスによりバランスを崩せば、即座に粘となるので、機会を逸せずに攻撃しなければなりません(後発先至)。
攻(粘、剛、実)を陽として、守(走、柔、虚)を陰として象れば、「虚実転化」と「陰陽相済」(剛柔相済)の実例を体験的に理解できるのではないかと思います。
剛:力強い事。相対的に柔よりも沈んで重みがある。硬い力は使わない。実に対応する。
柔:綿のような柔軟さ。虚に対応する。剛と柔は相対的な関係にある。
走:守りを云う。「捨己従人」を云う。相手をいなして相手がバランスを崩したら、即粘(攻撃)になる転換を走化と云う。
順:順当で安定した状態。易経では、「順」は「順う」の意味でよく使われます。
背:不利な状態。姿勢や状態が順当でなくバランスを崩している状態。
粘:攻めを云う。「後発先至」を云う。
- 「察四両撥千斤之句、顕非力勝」
(察せよ、四両も千斤を撥くの句を、力に非ずして勝つこと顕らかなり)
四両(約200g)の軽い重さで千斤(約500kg)を彈くと云う句の如くであると、誇っています。実際には、「後発先至」を徹して、相手の姿勢や状態が順当でなくバランスを崩している状態となれば、攻撃が可能なポジション(粘)となるわけです。喩えて云えば、相手が崖っぷちでよろめいて千仞の谷底へ落ちんとする瞬間に、少しの力で押すというのが、太極拳の勝ち方です。その時に、てこの原理と同じく小さな力を倍増させて使えば、相手は吹っ飛ぶことでしょう。
- 「隨曲就伸」(曲に随い伸に就く)
相手が曲ならばそれに随い、相手が伸びればそれに沿って動く。曲伸に従って、自在に過不及無く動くべし。
曲:曲線で、相手の防御動作を表す。
伸:直線で、相手の攻撃動作を表す。
練習してもなかなか上達しない多くの人に対して、「太極拳論」は教えています。
上達できない理由を指摘しています。
- 「双重之病未悟耳」(双重の病、いまだ悟らざるのみ)
(上達しない理由は)双重の病を未だ理解していない事につきる。
「双重の病」を悟っていないのが原因と記します。「太極拳論」を読み進むと「双重」なる言葉は、上記の直前の文章にも表れています。
- 「偏沈則隨、双重則滞。」
(沈みに偏れば則ち随い、双重なれば則ち滞る。)
(相手の力を受けてその方向に)ゆるみ沈めば相手に逆らわない「隨」となりますが(正しい受け方)、相手の力を正面から受けて張り合えば、それは間違いの受け方で、滞ることになります。
以上から理解されるように、「双重の病」とは、相手の力に力で対抗する事で、太極拳の「以弱勝強」という大前提から出発する全ての技の取得練習に反する重大な病という事になります。
そこで、どうすれば良いかを示唆しています。
- 「欲避此病、須知陰陽。」
(この病を避けんと欲すれば、須らく陰陽を知るべし。)
この病を避けようとするならば、すべからく陰陽を知らなければならない。
陰陽を知るべしとは、太極の陰陽を知るべしという事ではなく、陰陽に象ることができる太極拳中の技・動作等について、「虚実転化の法則」「陰陽相済」などをよくよく理解しなさいという意味でありましょう。
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本稿に関するご意見質問等はメイルしてくだされば有難く存じます。
2021年
著者:加藤湖山
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