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王宗岳「太極拳論」には、内容の語句が異なる異種バージョンがあることを「王宗岳「太極拳論」を読む」において、既に紹介した。李亦畲の「太極拳釈名」についても、内容的に全く異質の異種バージョンが存在するので、「太極拳釈名と易」の中に付記した。 こうした「異種バージョン」のごたごたが何故生じたのかについて、唐豪・顧留馨著『太極拳研究』(参考文献2)から紹介する。(李亦畲が残した拳論の抄本とは異なる文言を使って記述される拳論を「異種バージョン」と、ここでは呼びます) 第1章 王宗岳「太極拳論」・李亦畲「太極拳釈名」の異種バージョンについて 第2章 王宗岳「太極拳論」等の異種バージョンの誤謬の顛末 第3章 李亦畲「太極拳釈名(十三勢)」の異種バージョンの補足唐豪・顧留馨『太極拳研究』(参考文献2)の記述によれば、1921年に出版された許禹生著『太極拳勢図解』の中で、彼は入手したオリジナル原稿への加筆改変を憶測によって行った。自分の旧説の非を1939年に彼は認めている。異種バージョンの特徴として次の4点が指摘できる。
1:「太極拳論」の本文に、「動静之機」が挿入されている。 2:「太極拳論」の本文に、数カ所のある一定の変更部分がある。 3:「太極拳釈名」の本文中の八門と八卦の並びが先天図に依っている。李亦畲の郝和本は後天図に依っている。 4:異種バージョンには、「武当山張三豊老師の遺論」等と記述されている場合が多い。 筆者注:張三豊は、張三峰、張三峯と記述される場合がある。こうした差異が生じた理由を推測させる記述が参考文献2(唐豪・顧留馨『太極拳研究』p.127)にあるので、抜粋翻訳して引用する。
許氏は、入手した拳論の草稿に「動静之機」の四文字を加筆挿入し、憶測で張三豊の遺稿とする記事を挿入して、1921年に『太極拳勢図解』を出版した。その後、1939年に自分の旧説の誤りを編著『太極拳』の「序文」の中で勇気を以って認めた。許禹生が旧説の誤りを勇気を以って認めた理由の手がかりと思われる記述がある。参考文献8『太極拳術』の中で、顧留馨は次のように記述する。
1932年1月初めに唐豪は陳子明に随って陳家溝に行き、太極拳史料を捜し集めた。事態の推移を年代順に並べてみよう。
1:1921年 許禹生、『太極拳勢図解』初版発行。「動静之機」の挿入と「張三豊」との関係を憶測で記述する誤りが含まれていた。 2:1925年 陳微明、『太極拳術』発行。拳論部分の文言は、武禹襄と李亦畬の原本に沿う意味で、ほぼ正しい記述と思われる。 3:1932年 唐豪は陳家溝に行き、陳式の太極拳史料を捜し集めた。 4:1934年 許禹生、『太極拳勢図解』第5版発行。誤りの訂正はされていない。 5:1939年 許禹生、編著『太極拳』出版。その「序文」の中で、『太極拳勢図解』の記述の非を認める。 6:1964年 唐豪・顧留馨、『太極拳研究』。「附考」の中で、許禹生が旧説の非を認めた顛末を詳述。1921年発行『太極拳勢図解』と1925年発行『太極拳術』とに記述されているほぼ同名の拳論の文言には大きな差異がある。研究者の唐豪は、1932年に陳家溝に赴き、検証作業を行って、全てを解明したと推定される。許禹生は旧説の非を1939年に公表した。顧留馨の「附考」が公表されたのは、唐豪没後の1964年である。 唐豪・顧留馨著『太極拳研究』が1964年に出版されたあとでも、多くの太極拳関連本に、『太極拳勢図解』の影響が散見される。唐豪・顧留馨は『太極拳研究』の中で、「妄加牽連、不値一駁(誤って関連させた妄説で、反駁する価値もない)」と、許氏の旧説に起因するごたごたを評している。 今日の著作権を尊重する見方をすれば、「許禹生は、おそらく著者がわかっている草稿を入手後に、著者として「張三豊」を示唆する文言を付け加え、更に内容を改竄して、自分の著書の中の重要部分として公表した」となる。従って、意図的な悪質な著作権の侵害とみなされる可能性がある。 唐豪・顧留馨著『太極拳研究』の「前言」の中で「王宗岳・武禹襄・李亦畬の拳論の本来の面目を回復して、太極拳の源流についての憶説と歪曲部分を訂正した」と記している。 「述而不作(述べて作らず)」(論語)は中国の古い言葉であり、引用転載自体を適切に行えば、伝統的な手法とも云える。 関係する人物の生没年を付記する。 許禹生(1879-1945):楊露禅ー楊健侯の系統 陳発科(1887-1957) 陳微明(1881-1958) 陳子明(?-1951) 唐豪(1897-1959) 顧留馨(1908-1990) 主要な関係者が記載されている「太極拳主要伝逓系統表」(参考文献8から転載)を引用して、理解の一助とする。
武禹襄と李亦畬が関係したバージョンが流布したという仮定をした上で、この相違の所以を尋ねるとすれば、例えば、作者に近い者が、あれこれと推敲を重ねた過程で生まれる草稿の一つに求める事ができる。仮に、郝和本の形が最終稿であるとすれば、上に引用した文章は、その推敲過程の産物とも云える。郝和本を「太極拳を整理して管理する」ものとする見解を紹介したが、その意味の中には、先天図を想定して八卦の並びを記述した草稿は、最終稿ではないという内容があるのかもしれない。 八卦の並びだけに注目すれば、宋易を信奉する輩が、先天図が含む対称性は後天図に優ると考えた結果、簡単に書き換えてしまう事もありうる。しかし、作者に近い者が、易との関係をどのように記述しようかと推敲を重ねる過程の草稿と考える方が自然かもしれない。 仮に「武当山張三豊老師の遺論」が事実を表していると仮定すれば、本来武当山に存在した古い文献が何らかの理由により流失して、それを武禹襄が入手したとも考えられる。今回、新たに二つの情報に接する事ができた。
1:前章にて引用したように、許禹生『太極拳勢図解』中の「武当山張三豊老師の遺論」の記述は事実無根の憶測である。 2:呉深根代抄楊健侯老先生授贈《大極拳譜〉の中に「十三勢」が見られる(参考文献12)。(本章のなかでは、仮に「楊健侯本」と称す。)上述の第2項が興味深い理由は、楊健侯は楊露禅三子であり、許禹生は楊健侯の弟子だからである。許禹生『太極拳勢図解』の「十三勢」と「楊健侯本」の「十三勢」は、後天図(図3)の記述なのか、あるいは先天図(図4)の記述なのかを比較するのは、興味深い。 異種バージョンの由来を尋ねる助けとなるべく、入手した諸本に掲載されている「太極拳釈名(十三勢)」の文言を以下に列拳する。
一名長拳,一名十三勢。長拳者,如長江大海滔滔不絶;十三勢者,分掤、捋、擠、按、採、挒、肘、靠、進退、顧盼、中定。掤、捋、擠、按,即坎、離、震、兌四正方也。採、挒、肘、靠,即乾、坤、艮、巽四斜角也。此八卦也。進步、退步、左顧、右盼、中定,此金、木、水、火、土也,五行也。総而言之曰十三勢也。 注)技の二番目に記される「捋」の文字は、手持ち書体にないという理由により、原文の文字と違っています。本稿末尾に掲載する図3の中(南・離・火の上方向)では原文の文字となっています。
太極拳,一名長拳,又名十三勢。長拳者,如長江大海,滔滔不絶也;十三勢者,分掤、捋、擠、按、採、挒、肘、靠、進、退、顧、盼、定也。掤、捋、擠、按,即坎、離、震、兌四正方也。採、挒、肘、靠,即乾、坤、艮、巽四斜角也。此八卦也。進步、退步、左顧、右盼、中定,即金、木、水、火、土也。此五行也。合而言之曰十三勢。是技也,一着一勢,均不外乎陰陽,故又名太極拳。 読み下し文:太極拳、一名長拳、又の名十三勢。長拳は、長江大海のごとく滔々として絶えざるなり。十三勢は、掤、捋、擠、按、採、挒、肘、靠、進、退、顧、盼、定に分かつなり。掤、捋、擠、按は即ち坎、離、震、兌、四正方なり。採、挒、肘、靠は即ち乾、坤、艮、巽、四斜角なり。これ八卦なり。進歩、退歩、左顧、右盼、中定は即ち金、木、水、火、土なり。これ五行なり。合わせてこれを言いて曰く十三勢。これ技なり、一着一勢、ことごとく陰陽を外れず、ゆえに又、太極拳と名づく。
長拳者,如長江大海滔滔不絶也。十三勢者,掤、捋、擠、按、採、挒、肘、靠、進退、顧盼、定也。掤、捋、擠、按,即坎、離、震、兌四正方也。採、挒、肘、靠,即乾、坤、艮、巽四斜角也。此八卦也。進步、退步、左顧、右盼、中定,即金、木、水、火、土也,此五行也。合而言之曰十三勢。
長拳者。如長江大海。滔滔不絶也。掤捋擠按採挒肘靠。此八卦也。進步退步左顧右盼中定。此五行也。掤捋擠按。即乾坤坎離四正方也。採挒肘靠。即巽震兌艮。四斜角也。進退顧盼定。即金木水火土也。合之則為十三勢也。
長拳者。如長江大海。滔滔不絶也。十三勢者。掤, 捋, 擠, 按, 採, 挒, 肘, 靠, 此八卦也。進步, 退步, 左顧, 右盼, 中定, 此五行也。掤, 捋, 擠, 按, 即乾, 坤, 坎, 離, 四正方也。採, 挒, 肘, 靠, 即巽, 震, 兌, 艮, 四斜角也。進, 退, 顧, 盼, 定, 即金, 木, 水, 火, 土也。
太極拳一名長拳,一名十三勢。長拳者,如長江大海滔滔不絶;十三勢者,掤、捋、擠、按、採、挒、肘、靠,此八卦也。進步、退步、左顧、右盼、中定,此五行也。合而言之曰十三势。掤、捋、擠、按,即坎、離、震、兌四正方也。採、挒、肘、靠,即乾、坤、艮、巽四斜角也。進、退、顧、盼、定,即水、火、木、金、土也。
長拳者, 如長江大海, 滔滔不絶也。 十三勢者: 掤、捋、擠、按、採、挒、肘、靠, 此八卦也, 進歩、退歩、中定、左顧、右盼, 此五行也。合而言之曰十三勢也。 掤、捋、擠、按, 即坎、離、震、兌, 四正方也。採、挒、肘、靠, 即乾、坤、艮、巽, 四斜角也。進、退、顧、盼、定, 即金、木、水、火、土也。
以掤按擠捋四者、喩乾坤坎離等四正方。以採挒肘靠四者、喩巽震兌艮等四斜角。以進前退後左顧右盼中定五者、喩火水木金土也。
掤捋擠按:『太極拳体用全書』楊澄甫(1934年) 掤, 捋, 擠, 按:『太極拳講義』呉公藻(1936年) 掤按擠捋:『太極拳勢図解』許禹生(1921年)唐豪・顧留馨著『太極拳研究』が主張する「不値一駁」なごたごたと思います。