王宗岳「太極拳論」を読む
御来訪有難うございます。 2021年10月公表、2023年2月第13章加筆 トップ「湖山のきょう底」へ戻る
『中国太極拳事典』(参考文献1)によれば、「太極拳論」を以下の如く記している(抜粋)。
太極拳書の名作。太極拳家・王宗岳の作。この論は太極拳の道理、方法の良き標準として捧げられたもので、深遠で、系統的で詳細な初めての太極拳技の理論著作で、王宗岳はこれにより太極拳の重要な地位を打ち立てた。この論は陰陽の理論で指導し、太極拳の原理、特徴、練習方法、注意事項を論述し、練習と技撃中の犯しやすい欠点を分析している。文章は流暢で、その中の多くの字句は、後世に教学の中で繰り返し引用される名言となっている。各派の太極拳の専門家がこの文を注釈した作品は非常に多い。
事典が言及するように、王宗岳の「太極拳論」には複数のバージョンがあって(
第4章)、混乱を招きやすい点がある。字句の多少の相違は、大きなトラブルを生むわけではないが、初学の筆者には興味を覚える点が読み取られる。ここでは、「太極拳論」についての参考文献を活用して、全文の理解を試みたい。
「太極拳論」は小論ではあるが、なかなか敷居が高い。理解の一助となるべく、いくつかの参考章を用意したので、最初に本論の全体構成を記す。
本論の全体構成。
第1章 王宗岳「太極拳論」を理解する為に必要な諸知識(重要な術語にはインデックスをつけました)
以弱勝強
捨己従人
用意不用力
人不知我、我独知人
一羽不能加(鋭敏な技術レベル)
懂勁
知己功夫
知己知彼
虚領頂勁、気沈丹田
立如平準、活似車輪
不偏不倚
由着熟而漸悟懂勁、由懂勁而階及神明
忽隠忽現
雖変化万端、而理唯一貫
虚実
左重則左虚、右重則右杳
無過不及
陰陽相済
動之則分、静之則合
人剛我柔謂之走、我順人背謂之粘
察四両撥千斤之句、顕非力勝
隨曲就伸
毎見数年純功、不能運化者、率皆自為人制
双重之病未悟耳
偏沈則隨、双重則滞
欲避此病、須知陰陽
本是捨己従人、多誤捨近求遠。所謂差之毫厘、謬之千里
第2章 王宗岳の太極拳論
第3章 筆者の感想:「太極拳論」の合理的な側面について
第4章 「太極拳論」の冒頭部分「太極者無極而生。動静之機、陰陽之母也。」の検討
第5章 「太極拳論」の冒頭部分「太極者。無極而生。」の読み方について
第6章 易経の中に見られる太極の記述
第7章 易経の中の陰陽と、象るということ
第8章 『太極図説』の紹介
第9章 太極両儀八卦を現代物理学でなぞってみる
第10章 参考になるかもしれない現代物理学の考え方
第11章 波動・振動と解釈の拡張
第12章 王宗岳「太極拳論」等の異種バージョンについて
第13章 王宗岳「太極拳論」等の異種バージョンの誤謬の顛末
第1章 王宗岳「太極拳論」を理解する為に必要な諸知識
筆者の経験上では、太極拳の動きと固有の術語等を知らずに、いきなり「太極拳論」を読んでも、なかなか理解しがたい思われます。そこで、第2章で「太極拳論」を読み進める前に、少しの予備知識を記します。
- 太極拳の比類なき特色
元々の太極拳は非常に特色のある武術拳法です。その特色とは、
「以弱勝強」(弱きを以って強きに勝つ)
と云うことです。この点について「太極拳論」の中では次のように(逆説的に)豪語しています。
「有力打無力、手慢譲手快、是皆先天自然之能、非関学力而有為也。」
力有る者が力無き者を打ち、手の慢き者が手の快き者に譲る。これ皆、先天自然の能。力を学ぶことに関するに非ずして為す有るなり。
力ある者が力無き者を打ち倒し、手の速き者が手の遅き者に勝つ。こんな勝ち方は先天自然な事であって、何も技を学ぶ必要などはない。
即ち、太極拳は、力無きものが力ある者に勝つ為の技術である。従って、力に対しては力で対抗するのではなく、技で対抗する。では、具体的にはどうすればよいのか。一言で言えば、「相手の力を受け流し続け、相手がバランスを崩した一瞬を捉えて、すかさず小さな力で破る」。
- 手押し相撲1(一番簡単なルールの場合)
太極拳で強調するところの相手の力を受け流して勝つ例として、手押し相撲を考える。ここでは最も簡明で動作の本質がわかりやすいルールを設定する。
ルール:相手と向き合って立つ。肘を直角にして、両手の平を相手と軽く接触させる。両肘の屈伸により、両手の平は同期させて直線的に前後に動かし、相手の手の平と押し合う。立つ姿勢のバランスを崩せば負けとなる。
(このルールでは、直線運動だけを考えている。両手を同期させないルールならば、身体の回転運動まで入れる事になる。更に、手の左右への開合を許す拡張などが考えられる。)
二人が両手の平を合わせて、相手に向かって同時に押し合えば、体重が重くて力が強い者が押し勝つでしょう(これこそ、太極拳がもっとも嫌う病とも云える動き方です)。ところが、手の平を後ろに引く事を考えると、事情が違って来ます。相手の手の平が強い力とスピードで押し出された瞬間に、相手のスピードとほとんど同じ程度のスピードで、自分の手の平を後ろへ引けば、相手はバランスを崩して前にのめってしまい、負けとなります。この場合、自分は相手に対して何も力を使わずに、強い力の者を負かしています。逆に、相手が両手を後ろに引き過ぎてバランスを崩した時は、そこを少しの力で押せば、勝つ事が出来ます。
太極拳は、相手が先に動き過ぎてバランスを崩した所をすかさず小さな力で破る事を目標とします。
以上の簡単な動作の中には太極拳の核心的な動き・技と考え方が含まれています。
- 捨己従人(後発制人・後発先至・以静制動)
先に動く相手の動作に従って自分は後から付いて動いています。相手がどのように動くかを感じて、相手の動きを鋭敏な感覚で知覚して、その動きに従って(逆らわないように)自分が動きます。これを
「捨己従人」(己を捨てて、人(相手)に従う)
と云います。
同じ事を言い換えれば、「後発制人」(後から発して人を制す)、あるいは「後発先至」(後から発して先に至る)、「以静制動」(静を以って動を制す)とも云えます。
自分の力が相手に比べて弱い事を前提にすれば、この方法(相手の動作に追随して逃げ回り、相手がバランスを崩した瞬間に、少しの力で相手を破る)が必勝法となるでしょう。
- 用意不用力
自分は意識して相手の運動を捉えて、相手の運動に従う事によって、硬い力(直線的な拙い力)を使っていません。これを
「用意不用力」(意(意識)を用いて力を用いず)
と云います。力量の大きさで勝つ事を目的としていないのです。
- 人不知我、我独知人
自分は、自分の技量を知り、相手の運動を予測して相手に従いますが、相手は、我を知らない為にバランスを崩すわけです。こうなれば、
「人不知我、我独知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而及也」(人、我を知らず、我独り人を知る。英雄の向かうところ敵無きは、蓋し皆これによりて及ぶなり)
となります。相手が我を知らないのは、我は相手の動きに従ってまるで先んじるように動くからです。即ち、「以静制動」「捨己従人」を実践するからです。
- 一羽不能加(鋭敏な技術レベル)
相手に先んじて相手の動きを察知しなければ、勝てるわけがありません。相手の動きを感じる為に必要となる鋭敏な技術レベルを次のように喩えています。
「一羽不能加、蝿虫不能落」(一羽も加わる能わず、蝿虫も落ちる能わず)
一枚の羽の重みが加わる事も感じられて、蝿さえも勝手に止まる事を許さないほどに、全身の皮膚感覚と知覚感覚が鋭敏である。
- 懂勁
ここまで記したように、弱者が強者に勝つ為には、技で勝負しなければならない事が強調されています。従って、必要となるべき技を磨く事が毎日の練習の最も重要な課題となります。この技(功夫----技術レベル)を悟る事を
「懂勁」
と呼んでいます。これは勁を懂るという意味です。
この「勁」とは、太極拳特有の言い方ですが、『中国太極拳事典』では次のように説明しています(参考文献1)。
勁:太極拳の特殊力学構造。一定の訓練程式と方法を通して、力の大小、方向、作用点と動態の伝わりなどが高まり、改善される。これは一種の昇華された力である。(抜粋)
簡単に云えば、太極拳の中で用いられる我彼の強さの目処となる「力」を云います。
「力」と云えば、普通はその瞬時の力の大きさを指しますが、私見を記せば、太極拳の中では、ある微小な時間幅の中で認識出来る「力の動き(推移)」を云います。ベクトルとしての力(力の大きさと方向)と、更に、その力を与える為に動く物(手など)の速度(スピードと方向)を含みます。
この事を次のように表現しています(参考文献14、p.18)。
相手の勁を正しく認識する事を「聴勁」と云います。聴勁とは、相手と触れた瞬間に、相手の力の方向、目標、ストロークの長短、力量の大小を正確に判断する事です。
聴勁を正しく素速く行う為には、前提として、自分の正確な姿勢と動作が意を以って行える事が必要です。例えば、長さを正しく測定する為には、正しい物差しを正しく使わなければなりません。自分の物差しを正しくして、且つ、意識を以って正しく運用出来なければいけません。この事を
「知己功夫」(己れの功夫(技術レベル)を知る)
と云います。
相手をよく知る事は「知彼功夫」(彼の功夫(技術レベル)を知る)と云います。「知彼功夫」に必要となるのが、「聴勁」の高いレベルと云えましょう。
従って、日々の練習には、
「知己知彼」(己れを知り、相手を知る)
が必要となります。
更に、自分の物差しを正しくするという意味で、自分の正確な姿勢が出発点となります。
「虚領頂勁、気沈丹田」(頂勁を虚領にして、気は丹田に沈む)
虚領頂勁:太極拳の練習要領。また"虚霊頂勁"とも書く。虚霊頂勁になるには、身形上の要求については、脊椎はゆるめてまっすぐ、両肩は平らに穏やかで端正に、うなじを立てて、頭頂の百会はやや上へまとめ上げるように、下顎はわずかに内へ収め、全身はリラックスして、両足は平らに地を踏み、頭頂は天にあり、足は地に入る感じである。虚霊頂勁の本質は更にもうひとつの状態を指し、その状態の下で、身体を展開して精神・意識を充満すれば、筋骨皮の訓練と同時に、精気神も鍛錬できる。拳の訓練のたびに起勢からこの状態で始めれば、収勢で終わるときは整っている。《十三勢歌訣》中にいう"尾閭中正神貫頂、満身軽利頂頭懸(尾閭は中正にし、神は頂を貫く、満〈全〉身は軽利で 頭は頂から懸ける)"はこの意味を指す。(参考文献1、抜粋)
虚:虚にして、上にひっぱられる感じ。
領:率いる。
頂:頭のてっぺん。
勁:力。
気沈丹田:ここでいう丹田とは小腹部。気沈丹田とはすなわち"実腹"である。"丹田"は 中国伝統内功の"気海"を修め、"気沈丹田"は全身に気を巡らせることの核心条件である。(参考文献1、抜粋)
簡単に云えば、精神と肉体ともに力を抜いてまっすぐ立ちなさいという事でしょうか。
このような正しい動作がどのように見えるかを喩えて表現しています。
「立如平準、活似車輪。」(立てば平準の如く、活けば車輪に似たり。)
立つ姿は天秤のごとくバランスよく立身中正で左右のバランスに鋭敏であり、動けば、車輪のような滑らかな回転(円運動のごとき)を示す。
更に、動作が保つべき原則が述べられています。
「不偏不倚」(偏せず倚らず)
かたよらず、寄りかからずですから、体(あるいは技など含む全て)がバランスを保つように、重心は中正を保つようにということでしょう。易経では、「中正」(あるいは「正中」)とは、あるべき場所(真ん中の位置)にあるべき物が位置すると云う事で、最も尊重される状態と云えます。
こうした訓練を「慢」い動きから始めて積み重ねる事によって、意識した動きを、ほとんど無意識の状態で快く行えるレベルに到達します。これを「太極拳論」は次のように表現しています。
「由着熟而漸悟懂勁、由懂勁而階及神明。」(着、熟するによりて、漸く懂勁を悟る。勁を懂ることによりて階は神明に及ぶ。)
勁について、「ある微小な時間幅の中で認識出来る力の動き(推移)」と記しました。「微小な時間幅」を限りなく短くして、しかも正しく「力の動き(推移)」を認識出来る段階が、神明のレベルと云えましょう。
神明:懂勁の高度な段階・レベルを云う。神業のように極めて高度な技芸を云う。
- 忽隠忽現
聴勁が上達して、神明に及ぶほどになれば、相手の緩急を混じえたどのような動きにも追随する事が出来るようになります。このレベルを「太極拳論」は次のように描写します。
「動急則急応、動緩則緩隨」(動くこと急なれば、則ち急にして応ず。動くこと緩なれば、則ち緩にして随う。)
相手が速く動けば、自分も速く動き、相手がゆっくり動けば、こちらもそれに従う。
このようにして体得(身知)した勁の変化万端して(相手から)捉えがたい運用を次のように喩えています。
「忽隠忽現」(忽ち隠れ忽ち現る)。
そして、大切な事は、動作が如何様に変化しても、その動きの根底にある原理原則は一定であると強調します。
「雖変化万端、而理唯一貫」(変化万端といえども理はただ一つに貫かれる。)
変化万端といえども、そのもとの道理は一つである。
もとの道理とは、「捨己従人・以静制動・用意不用力」などの太極拳の基本的な考え方の根底にある道理を云います。具体的には、「虚実転化の法則」・「陰陽相済」等の陰陽に関わるフレーズで表されます。「太極拳論」は具体例を以って示していますので、以下に紹介します。
- 虚実
一貫する道理の具体例を「太極拳論」は記述しています。
「左重則左虚、右重則右杳」(左重ければ則ち左は虚ろ、右重ければ則ち右は杳し)
左(手)に相手の重さを感じたならば、左側が崩れやすくなるので、そうならない為に左を虚にする。右が重く感じれば、右を虚にして、相手からは暗闇と同じように見えなくする。
重く感じるような剛の力で相手が向かってきたら、自分の状態を虚にしなさいと述べています。虚は実に対応して、次のような事です。
虚:重さが加わっていない状態。ほとんど無力状態とも云える。
実:重さが加わっている状態。
体の重心が左足にかかっていれば、左足を実と云い、右足を虚と云う。相手の攻撃があれば、即座に(対応する部分を)虚にする事によって相手から見えないようにして、相手の攻撃を無力化しなさいと述べています。虚実は、手足や全身(重心)に対して考えられます。
この例を逆に考えれば、実のままの状態ならば、相手の攻撃に破れるという事になります。具体的には、力に対して力で対抗するので、破れるのです。実であれば、相手に対応して変化する事が出来ないわけです。一方、相手を攻撃する場合には、こちらが実にならなければいけない事がわかります。即ち、実と虚は素速く入れ替わらなければなりません。これを
「虚実転化」
と云います。更に、虚になり過ぎても実になりすぎてもバランスがくずれてしまう事は容易に理解できます。こうした状態を
「無過不及」(過不及無し)
と述べています。
このように、虚と実の状態が、過ぎる事も及ばない事もないように、うまく入れ替わる事を
「虚実転化の法則」
と云い、虚実が全体として中庸を保つ事を
「陰陽相済」
と云います。
「陰陽相済」と呼ぶのは、易経の中で陰陽を象る相対する二つの事象は、中庸を保つ事が最良である事が多いと云う考え方に対応しています。この場合には、「虚の状態」を「陰」として、「実の状態」を「陽」として象っています。
「後発先至」で、先に至る(攻撃する)事ができる為には、神明に至るほどの格別の技が必要な事は云うまでもありません。
- 剛柔と攻守
太極拳は武術ですので、「太極拳論」は攻守の基本に言及します。
「人剛我柔謂之走、我順人背謂之粘」(人、剛にして、我、柔なる、これを走という。 我、順にして、人、背なる、これを粘という)
相手が剛で我は柔であれば走となり、我が順で相手が背であれば粘となる。
相手が強い力(剛)で攻撃して来たときに、自分は柔で対応すれば、それを防御(走)とする。自分が順当で安定した状態であって、相手の姿勢や状態が順当でなくバランスを崩している状態であれば、攻撃が可能(粘)なポジションとなる。
走と粘は太極拳特有の術語であり、密接に連動しています。走のある瞬間に、相手がミスによりバランスを崩せば、即座に粘となるので、機会を逸せずに攻撃しなければなりません(後発先至)。
攻(粘、剛、実)を陽として、守(走、柔、虚)を陰として象れば、「虚実転化」と「陰陽相済」(剛柔相済)の実例を体験的に理解できるのではないかと思います。
剛:力強い事。相対的に柔よりも沈んで重みがある。硬い力は使わない。実に対応する。
柔:綿のような柔軟さ。虚に対応する。剛と柔は相対的な関係にある。
走:守りを云う。「捨己従人」を云う。相手をいなして相手がバランスを崩したら、即粘(攻撃)になる転換を走化と云う。
順:順当で安定した状態。易経では、「順」は「順う」の意味でよく使われます。
背:不利な状態。姿勢や状態が順当でなくバランスを崩している状態。
粘:攻めを云う。「後発先至」を云う。
- 手押し相撲2(重心と回転を考える)
手押し相撲1は、ルールを簡略化した為に、太極拳の重要な要素を欠いています。それは、回転の考え方です。そこで、ルールを拡張して、両手を同期させずに動かして良い事にしてみます。
- 重心の移動と運動量の保存則
両手を同期させて前後に動かす場合には、実は、体全体の重心の位置が前後に移動しています。そして、重心の位置が体全体の(仮想的な)底面からはみ出す場合に、全身は不安定になって、よろけてしまいます。両手を前後に反対方向に動かせば、重心は移動する事がありません。物理の言葉で云えば、「運動量の保存則」が成り立つので、新たな重心移動(重心の運動)は生じないのです。太極拳の動きを例に云えば、ある一方向に(手足など)動かした場合、その反対方向に、(運動量の意味で)同等の動きをすれば、重心は動きません。従って、右手を前に突き出したら、それ相応に左手を後ろに引けば、重心の移動はなくて、安定のままです。足を前後に開けば、重心移動の安定領域が広くなりますから、少しの非対称的な両手の動きをしても、不安定になる度合いが減少します。非対称的な運動の場合には、重心が近づいた側の足への負担が大きくなる事になります。その究極は一本足になる事ですが、両足で支える時に比べて不安定な事は、容易に理解されます。実際の太極拳では、足を使った移動がありますから、バランスとの関係を取り入れて重心がどのように移動するかを考える事は、重要です。
このように考えると、先に述べた虚実は、(全身の)重心移動を表しているとも考えられます。
「太極拳論」の冒頭あたりに以下の記述があります。
「動之則分、静之則合」(これを動かさば則ち分かれ、これを静むれば則ち合す)
表現は易しいのですが、いきなり冒頭に格調高く登場するので、形而上学的に解釈するむきもあるようです。後続の文章との接続もあって、次の解釈が適切と思います。
動之則分:動作初期においては、身体の根幹部分を中心にして、まわりに付随するパーツ部分が動作を開始するが、ひとつのパーツの運動には、反対の動作要求を持つ別のパーツの運動をともなう。分かれるのは、動作の要素であり、併せて平衡の概念を包括しています。(参考文献15、抜粋)
簡単に云えば、次の備えも同時に始めよ、その結果として「不偏不倚」(バランス)を保ち、「忽隠忽現」て、「陰陽相済」しなさいと。全体としては核心的なすごい事を云っているわけです。重心移動がないように、運動量が保存するように動きなさいと云えば、体操には応用できますが、武術にはなりません。
「静之則合」は動作の収束を解説している部分との事ですから、その意味は同じと思います。
- 回転運動
両手を同期させないで動かせるので、体をひねる(半分程度回転させる)動きが新たに可能となります。この回転では重心位置は変化しません。回転を引き起こす大きさは偶力のモーメントと呼ばれます。これは、力の大きさと、回転軸からその点までの距離との積です。人間は剛体(変形しない硬い物体)ではなく、太極拳の場合、身体がぐるぐる回る回転は取り敢えず考慮外とします。この場合、足が固定されていれば、回転のエネルギーは人間の体に蓄えられる事になります。体の中の複数のバネ仕掛けのような箇所に、バネが縮むような形でエネルギーが蓄えられます。このエネルギーを放出する場合を考えます。偶力のモーメントは、力と距離の積である事を思い出しましょう。距離を半分にすれば、放出する力の大きさは二倍になりますね。これはてこの原理と同じようなものです。元々は小さな力でも、この原理を応用すれば、実際に大きくなるのです。実際には身体の近くで動作する事を指します。
この点について「太極拳論」の中では次のように記しています。
「察四両撥千斤之句、顕非力勝」
(察せよ、四両も千斤を撥くの句を、力に非ずして勝つこと顕らかなり)
四両(約200g)の軽い重さで千斤(約500kg)を彈くと云う句の如くであると、誇っています。実際には、「後発先至」を徹して、相手の姿勢や状態が順当でなくバランスを崩している状態となれば、攻撃が可能なポジション(粘)となるわけです。喩えて云えば、相手が崖っぷちでよろめいて千仞の谷底へ落ちんとする瞬間に、少しの力で押すというのが、太極拳の勝ち方です。その時に、てこの原理と同じく小さな力を倍増させて使えば、相手は吹っ飛ぶことでしょう。
「太極拳論」の冒頭に、攻防に関する句がありました。
「隨曲就伸」(曲に随い伸に就く)
相手が曲ならばそれに随い、相手が伸びればそれに沿って動く。曲伸に従って、自在に過不及無く動くべし。
曲:曲線で、相手の防御動作を表す。
伸:直線で、相手の攻撃動作を表す。
- 病を防ぐ----上達の為に
練習してもなかなか上達しない多くの人に対して、「太極拳論」は教えています。
「毎見数年純功、不能運化者、率皆自為人制」
(毎に見る、数年純功するも運化を能わざる者は、おおむね自ら人に制せらるるを)
何年も練習するが上達できない人がいつも存在します。その人々は、自分から進んで人に制せられているのです。
上達できない理由を指摘しています。
「双重之病未悟耳」(双重の病、いまだ悟らざるのみ)
(上達しない理由は)双重の病を未だ理解していない事につきる。
「双重の病」を悟っていないのが原因と記します。「太極拳論」を読み進むと「双重」なる言葉は、上記の直前の文章にも表れています。
「偏沈則隨、双重則滞。」(沈みに偏れば則ち随い、双重なれば則ち滞る。)
(相手の力を受けてその方向に)ゆるみ沈めば相手に逆らわない「隨」となりますが(正しい受け方)、相手の力を正面から受けて張り合えば、それは間違いの受け方で、滞ることになります。
以上から理解されるように、「双重の病」とは、相手の力に力で対抗する事で、太極拳の「以弱勝強」という大前提から出発する全ての技の取得練習に反する重大な病という事になります。
そこで、どうすれば良いかを示唆しています。
「欲避此病、須知陰陽。」
(この病を避けんと欲すれば、須らく陰陽を知るべし。)
この病を避けようとするならば、すべからく陰陽を知らなければならない。
陰陽を知るべしとは、太極の陰陽を知るべしという事ではなく、陰陽に象ることができる太極拳中の技・動作等について、「虚実転化の法則」「陰陽相済」などをよくよく理解しなさいという意味でありましょう。
最後に日々の正しい練習がいかに大切であるかを記しています。
「本是捨己従人、多誤捨近求遠。所謂差之毫厘、謬之千里。」
(本はこれ己を捨てて人に従うを、多くは誤りて近きを捨て遠きを求む。いわゆる差は毫厘、謬りは千里なり。)
太極拳では、元来は己を捨てて、人(相手)に従う事が一番大切なのに、多くの人は、近くに求めるものがあるのにこれを捨てて、わざわざ遠くに求めようとするという、愚かな事を行っている。ことわざに云うように、いわゆる、誤りの始めの差は僅かであるのに、やがてはとても大きくなるのである。
捨近求遠:近きを捨て遠きを求む。近い所に求めるものがあるのに、わざわざ遠くに求めようとする。出典:道は近きに有り。しかるに諸を遠きに求む(孟子、離婁章句上)。
第2章 王宗岳の太極拳論
太極拳論 王宗岳
太極者無極而生。陰陽之母也。
太極は無極にして生ず。陰陽の母なり。
【意訳】
太極は無極にして、陰陽の母である。
動之則分、静之則合。無過不及、隨曲就伸。
これを動かさば則ち分かれ、これを静むれば則ち合す。過不及無く、曲に随い伸に就く。
【意訳】
動き始める時は、その反対の意味を持つ動作が分かれるようにして伴い、動きが終わる時には、その反対の動作を合わせるごとく伴う事により、全体の平衡を保つ。その動きには、過ぎる事も及ばぬ事もなく、相手が曲ならばそれに随い、相手が伸びればそれに沿って動く。
人剛我柔謂之走、我順人背謂之粘。動急則急応、動緩則緩隨。雖変化万端、而理唯一貫。
人、剛にして、我、柔なる、これを走という。 我、順にして、人、背なる、これを粘という。動くこと急なれば、則ち急にして応ず。動くこと緩なれば、則ち緩にして随う。変化万端といえども理はただ一つに貫かれる。
【意訳】
相手が強い力(剛)で攻撃して来たときに、自分は柔で対応すれば、それを防御(走)とする。自分が順当で安定した状態であって、相手の姿勢や状態が順当でなくバランスを崩している状態であれば、攻撃が可能なポジション(粘)となる。相手が速く動けば、自分も速く動き、相手がゆっくり動けば、自分もそれに従う。変化万端すれども、そのもとの道理は一つである。
由着熟而漸悟懂勁、由懂勁而階及神明。然非用力之久、不能豁然貫通焉。
着、熟するによりて、漸く懂勁を悟る。勁を懂ることによりて階は神明に及ぶ。然るも力を用いることの久しきに非ざれば、豁然として貫通する能わず。
【意訳】
技に習熟するに従って、次第に
懂勁という事が理解できる。勁を
懂ることが出来れば、太極拳の極意に到達する。しかしながら、懂勁を悟るべく力を用いる事についての長い研鑽を積まなければ、突然開けるようにこの境地に達することはできない。
虚領頂勁、気沈丹田。不偏不倚、忽隠忽現。左重則左虚、右重則右杳。仰之則弥高、俯之則弥深。進之則愈長、退之則愈促。
頂勁を虚領にして、気は丹田に沈む。偏せず倚らず、忽ち隠れ忽ち現る。左重ければ則ち左は虚ろ、右重ければ則ち右は杳し。これを仰ぎては則ち弥高く、これを俯しては則ち弥深し。これを進みては則ち愈長く、これを退きては則ち愈促す。
【意訳】
首を弛め伸ばして無念無想でゆったり立ち、気を丹田に沈める。かたよらず、寄りかからず、体がバランスを保つように、重心は中正を保つようにして、勁力の運用は、変化万端して捉えがたく、さっと隠れさっと現れるごとく。
左(手)に相手の重さを感じたならば、左側が崩れやすくなるので、そうならない為に左を虚にする。右を重く感じれば、右を虚にして、相手からは暗闇と同じように見えなくする。
相手が上に向かうとすればますます高く、下に向かうとすればますます低く、前に進めばますます前に進ませ、退けばますます退くように、すべて相手の動きに随う。
一羽不能加、蝿虫不能落。人不知我、我独知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而及也。
一羽も加わる能わず、蝿虫も落ちる能わず。人、我を知らず、我独り人を知る。英雄の向かうところ敵無きは、蓋し皆これによりて及ぶなり。
【意訳】
一枚の羽の重みが加わる事も感じられて、蝿さえも勝手に止まる事を許さないほどに、全身の皮膚感覚と知覚感覚は鋭敏にする。人(相手)は我を知らず、我が独り人を知る。(「以静制動」「捨己従人」を云う)。英雄が向かうところ敵無しとは、確かに全てこの事によるのであろう。
斯技旁門甚多、雖勢有区別、概不外壯欺弱、慢譲快耳。有力打無力、手慢譲手快、是皆先天自然之能、非関学力而有為也。察四両撥千斤之句、顕非力勝、観耄耋能禦衆之形、快何能為。
この技の旁門は、甚だ多し。勢は区別ありといえども、おおむね壮は弱を欺き、慢は快に譲る耳に外ならず。力有るが力無きを打ち、手の慢きが手の快きに譲る。これ皆、先天自然の能。力を学ぶことに関するに非ずして為す有るなり。察せよ、四両も千斤を撥くの句を、力に非ずして勝つこと顕らかなり。観よ、耄耋の能く衆を御するの形を。快なるも何ぞ能く為さんや。
【意訳】
武術の流派はとても多く、その型(技)も多様だが、おおむね強い者が弱い者をいじめ、技の速い者が技の遅い者を負かしているにすぎない。力ある人が力なき人に勝ち、遅い人が速い人にやられる。こうした事例は全て自然の能力であって、個人が学んで得られる技術によって、為しているものではない。四両(約200g)の軽い重さで千斤(約500kg)を彈くと云う句を思い起こして下さい。ここでは、力を使わない事によって勝つことは明らかである。弱い老人が大勢を意のままに制する様をごらんなさい。単に速いからといって、どうして勝つ事ができましょうぞ。
立如平準、活似車輪。偏沈則隨、双重則滞。
立てば平準の如く、活けば車輪に似たり。沈みに偏れば則ち随い、双重なれば則ち滞る。
【意訳】
立つ姿は天秤のごとくバランスよく立身中正で左右のバランスに鋭敏であり、動けば、車輪のような滑らかな回転(円運動のごとき)に似た様となる。相手の力を受けてその方向にゆるみ沈めば相手に逆らわない「隨」となるが(正しい受け方)、相手の力を正面から受けて張り合えば、それは間違いの受け方で、滞ることになる。
毎見数年純功、不能運化者、率皆自為人制、双重之病未悟耳。
毎に見る、数年純功するも運化を能わざる者は、おおむね皆自ら人に制せらるるを。双重の病、いまだ悟らざる耳。
【意訳】
何年も練習するが上達できない人がいつも存在する。その人々は、自分から進んで人に制せられているのだ。上達しない理由は、双重の病を未だ理解していない事につきる。
欲避此病、須知陰陽、粘即是走、走即是粘、陽不離陰、陰不離陽、陰陽相済、方為懂勁。懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至従心所欲。
この病を避けんと欲すれば、須らく陰陽を知るべし。粘はすなわち是れ走、走はすなわち是れ粘。陽は陰を離れず、陰は陽を離れず、陰陽相済して、まさに懂勁となす。勁を懂りてのちは、いよいよ練ればいよいよ精なり。黙と識り、揣摩すること漸くにして心の欲するところに従うに至る。
【意訳】
この病を避けようとするならば、すべからく陰陽を知らなければならない。粘は走であり、走もまた粘である。陰陽は不離であり、陰陽相済して、はじめて懂勁と呼ばれる高い技術レベルに達する。勁を悟って後は、修練を積めばますます技は精緻となる。黙々と認識して、推量しながら研鑽すれば、次第に技は心が欲するままに、自由自在に至る。
本是捨己従人、多誤捨近求遠。所謂差之毫厘、謬之千里。学者不可不詳弁焉。
是為論。
本はこれ己を捨てて人に従うを、多くは誤りて近きを捨てて遠きを求む。いわゆる差は毫厘、謬りは千里なり。学ぶ者、詳らかに弁ぜざるべからず。
是を論と為す。
【意訳】
太極拳では、元来は己を捨てて、人(相手)に従う事が一番大切なのに、多くの人は、近くに求めるものがあるのにこれを捨てて、わざわざ遠くに求めようとするという、愚かな事を行っている。ことわざに云うように、いわゆる、誤りの始めの差は僅かであるのに、やがてはとても大きくなるのである。太極拳を学ぶ者は、このことを詳しくわきまえなければならない。
以上を以って、本論とする。
【語句】
無過不及:過も不及も無い。過ぎることと及ばないことが無い。
剛:力が強いこと。硬いこと。
柔:綿のような柔軟さ。
順:適正。
順う。
背:不適正。
走:攻める。「捨己従人」を云う。
粘:守る。
着:技。
懂勁:
勁を
懂る。勁の運動法則を理解し、把握すること。
勁:太極拳の特殊力学構造。一定の訓練程式と方法を通して、力の大小、方向、作用点と動態の伝わりなどが高まり、改善される。これは一種の昇華された力である。簡単に云えば、太極拳の中で用いられる我彼の強さの目処となる「力」。
懂:悟る。理解する。
神明:懂勁の高度な段階。
豁然:疑いや迷いが突然消えるさま。
虚領頂勁、気沈丹田:
第1章の術語解説参照
不偏不倚:かたよらず、寄りかからず。体(あるいは技など含む全て)がバランスを保つように、重心は中正を保つように。
忽隠忽現:勁力の運用を云う。変化万端して捉えがたい様の比喩。
一羽不能加、蝿虫不能落:一枚の羽の重みが加わる事も感じられて、蝿さえも勝手に止まる事を許さないほどに、全身の皮膚感覚と知覚感覚が鋭敏な事。聴勁が鋭敏な事を云う。
人不知我、我独知人:相手を先に動かし、我は相手の動きに従って動くから、相手は我の動きを認識できず、我だけが相手の動きを知る。「以静制動」「捨己従人」を云う。
杳:暗。暗くてはっきりしないさま。
慢:ゆっくり。
快:はやい。
四両撥千斤:四両(約200g)の軽い重さで千斤(約500kg)を彈く。
耄耋:衰え弱った老人。
黙識:口に出さずに心中に会得すること。
揣摩:あれこれとおしはかって推量すること。
捨己従人:先に動く相手の動作に従って自分は後から付いて動く。
捨近求遠:近い所に求めるものがあるのに、わざわざ遠くに求めようとする。
毫厘:わずか。
差之毫厘、謬之千里:誤りの始めの差は僅かであるのに、やがてはとても大きくなる。
【全文】
ほぼ郝和本による(参考文献12)。
山右王宗岳太極拳論
太極者。無極而生。陰陽之母也。動之則分。静之則合。無過不及。隨曲就伸。
人剛我柔。謂之走。我順人背。謂之粘。動急則急応。動緩則緩隨。雖変化万端。而理唯一貫。
由着熟而漸悟懂勁。由懂勁而階及神明。然非用力之久。不能豁然貫通焉。
虚領頂勁。気沈丹田。不偏不倚。忽隠忽現。左重則左虚。右重則右杳。仰之則弥高。俯之則弥深。進之則愈長。退之則愈促。
一羽不能加。蝿虫不能落。人不知我。我独知人。英雄所向無敵。蓋皆由此而及也。
斯技旁門甚多。雖勢有区別。概不外壯欺弱。慢譲快耳。有力打無力。手慢譲手快。是皆先天自然之能。非関学力而有為也。察四両撥千斤之句。顕非力勝。観耄耋能禦衆之形。快何能為。
立如平準。活似車輪。偏沈則隨。双重則滞。毎見数年純功。不能運化者。率皆自為人制。双重之病未悟耳。
欲避此病。須知陰陽。粘即是走。走即是粘。陽不離陰。陰不離陽。陰陽相済。方為懂勁。懂勁後愈練愈精。黙識揣摩。漸至従心所欲。
本是捨己従人。多誤捨近求遠。所謂差之毫厘。謬之千里。学者不可不詳弁焉。
是為論。
第3章 筆者の感想:「太極拳論」の合理的な側面について
「太極拳論」は物理の運動法則から見ても合理的な事を述べていると思われる。それが、多くの方々の賛同を得る所以ではないか。具体例をあげて検討する。
「太極拳論」で提案されている練習方法は次の如くである。
この病を避けんと欲すれば、須らく陰陽を知るべし。粘はすなわち走、走はすなわち粘。陰は陽を離れず、陽は陰を離れず、陰陽相済して、まさに懂勁となす。
陰陽を知るとは、太極の陰陽を知らねばならないという意味ではない。陰陽が象る諸物についてよく知りなさいという意味であろう。すなわち
太極拳に関係する事象をとれば、
陽:奇剛健強動進升実円直長伸緩広、
陰:偶柔順弱静退降虚方曲短縮急狭。
これらの対になる運動について、よくよく考えなさいという意味であろう。そして「陰陽相済」が大切だと云う。これは物理の運動法則に合致することが大切だと理解される。特に保存則が大切と強調しているようにも感じる。
簡単な例を挙げれば、右手を右に出す場合、その反対の左にも左手を出して、運動量の保存則を満たす(陰陽相済)ようにしなければ、バランスが崩れて、(部分的にあるいは重心が)動いてしまう。この場合、右と左の動きを形からみて必ずしも対称にする必要はなく、運動量(質量と速度の積)の保存則が成立するように動けば良いのである。従って、外見の変化の仕方は無数に存在する。このあたりが、「黙識揣摩、漸至従心所欲」と記す所以であろうと推測する。
回転運動の場合には角運動量(回転に関する質量もどきと速度の積)の保存則を考えねばならない。角運動量の保存の例として、フィギアスケートの回転を例にすればわかりやすい。回転のスピードを増す場合に、スケーターはジャンプすると同時に伸ばした腕を縮めるという動作をする。これは、角運動量保存則が成り立つ場合に、回転に関する質量もどきを小さくする事(腕を縮める)により、回転速度が大きくなるという事実を応用している。あるいは、回転椅子の上に座り、前方に伸ばした両腕を右に回せば、椅子は左に回転しようとするでありましょう。これは、角運動量を保存するために、土台が反対周りに動くのです。回転運動の場合、右回りと左回りの回転を組み合わせれば、角運動量は保存されるので、全体として無理のない動作が可能となる。前に伸ばした両腕を左右に広げても、椅子は全く動きませんね。身体の回転動作の場合に、この原理を意識するかしないかによって、結果は大きく変わるでありましょう。
新たに動くか動かないかと云う場合には、全ての力の合力を考えねばならない。ある一点に作用する力を全て足し合わせて、力の和がゼロになれば、その点は新たに動き出すことはない。力の和がゼロでなければ新たに動き出す。新たに動き出す場合には、ある大きさの力と加速度がその点に作用している事になる。この加速度によって速度の変化が生じる。速度の変化が生じると、ある時間が経過するとともに、動きの方向が変わるとか、力が作用する位置が、力がゼロの場合と比べて変化する。太極拳の場合、相手よりも早く、この力の変化、あるいは速度の変化、あるいは位置の変化を感知する事が重要となる。
太極拳では、力なき者が強い者に勝つのであるから、物理法則にあらがうような動きを咎めて、バランスが崩れたところを弱い力で圧倒するという事であろうと推察する。その為には、相手よりも鋭い感覚を磨いて、相手に先んじて相手の動きを察知することが必要と説いています(一羽不能加、蝿虫不能落。人不知我、我独知人)。
第4章 「太極拳論」の冒頭部分「太極者無極而生。動静之機、陰陽之母也。」の検討
王宗岳「太極拳論」の冒頭部分の記述には二つの版がある。
第一は、「太極者無極而生。陰陽之母也。」。
第二は、「太極者無極而生。動静之機、陰陽之母也。」。
「動静之機」なる語句があるか無いかの差である。手元にある太極拳関連本がどのように記しているか、紹介する。簡体字は現在の日本の漢字に直した。
- 許禹生、『太極拳勢図解』、p.11、体育研究社、1921年(北京科学技術出版社、2018年)
太極拳経
太極者無極而生、動静之機、陰陽之母也、
- 陳微明、『太極拳術』、p.56(p.128)、致柔拳社、1925年(北京科学技術出版社、2016年)
太極者。無極而生。陰陽之母也。
「動静之機」は欠落。
- 楊澄甫、『太極拳体用全書』、p.69、台湾逸文、2001年(初版1934年)
明王宗岳太極拳論
太極者無極而生。陰陽之母也。
「動静之機」は欠落。
- 呉公藻、『太極拳講義』、p.33、上海書店、1985年(初版1936年上海鑑泉太極拳研究社)
太極拳経
太極者。無極而生。動静之機。陰陽之母也。
- 『太極拳全書』、人民体育出版社、1988年
この本は、太極拳の各流派(楊式、呉式、武式、孫式)についての解説を行い、流派毎の章の末尾に付録として古典文献の全文が紹介されている。各流派についての付録から紹介する。
楊式(p.431):太極拳論:太極者無極而生。陰陽之母也。
呉式(p.566):王宗岳的太極拳論:太極者, 無極而生; 動静之機, 陰陽之母也。
武式(p.646):太極拳論:太極者, 無極而生, 陰陽之母也。
孫式(p.710):太極拳論:太極者, 無極而生; 動静之機, 陰陽之母也。(注)
(注)孫式の章では、「附: 参考資料」として紹介されている。
- 李天驥、『太極拳の真髄』、p.8、BABジャパン出版局、1992年
太極拳譜
太極者、無極而生、陰陽之母也。
「動静之機」は欠落。
訳文:太極は、無極より生じ、陰陽の母なり。
- 笠尾恭二、『中國武術史大観』、p.424、福昌堂、1994年。(主とした参照本は、許禹生『太極拳勢図解』、1921年、1971年復刊)
太極拳経
太極者無極而生。動静之機、陰陽之母也。
読み下し:太極は無極にして生ず。動静の機、陰陽の母なり。
- 唐豪・厭留馨著、『太極拳研究』、p.126、人民体育出版社、1999年(初版1964年)
太極拳論
太極者、無極而生、陰陽之母也。
「動静之機」は欠落。
- 銭育才、『太極拳理論の要諦』、p.88、福昌堂、2000年
太極拳論
太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。
訳文:太極とは、無極より生じ、動と静の機であり、陰と陽の母である。
- 顧留馨、『太極拳術』、p.417、上海教育出版社、2008年(初版1982年)
山右王宗岳太極拳論
太極者、無極而生、陰陽之母也。
「動静之機」は欠落。
- 郭福厚、『太極拳秘訣精注精釈』、p.4、人民体育出版社、2015年
太極拳論
太極者、無極而生、陰陽之母也。
「動静之機」は欠落。
- 李亦畲、『王宗岳太極拳論』、p.003、北京科学技術出版社、2016年
本書は李亦畲手抄本(郝和本)を写真版にて全文収録している。郝和本は李亦畲(1832-1892)が晩年に記した抄本であり、何種類か存在する抄本の中では、王宗岳に関連する太極拳の論文の原本に近いとの評価があると既に紹介した(太極拳釈名と易)。郝和本には以下の如く記されている。
山右王宗岳太極拳論
太極者。無極而生。陰陽之母也。
「動静之機」は欠落。
参考として、参考文献12から、郝和本抄本を転載する。
蛇足ながら、原本の第一頁の表記から、「太極」ー「拳論」であって、「太極拳」ー「論」ではないことがわかる。この部分を深読みすれば、表紙では、「太極」ー「拳論」と記し、本文冒頭では、「山右王宗岳太極拳論」と記している。「太極拳」と名付けたのは私(李亦畲)であると、示唆しているように、受け取れる。
図1. 太極拳論:李亦畲手抄本(郝和本)。
第5章 「太極拳論」の冒頭部分「太極者。無極而生。」の読み方について
◯太極者無極而生。動静之機、陰陽之母也。
二つの読み方が考えられて、解釈なども変わってくる。
1)太極は無極にして生ず。動静の機、陰陽の母なり。(参考文献6)
太極の性質は無極(極め無きほど広大)であると性質を述べている。これは易経の中の記述と合致する。
別解として、無極は即ち極が無いの意にて、未だ未分化であると解釈できない事はない。
2)太極とは、無極より生じ、動と静の機であり、陰と陽の母である。(参考文献9)
太極は無極から生まれるとするが、これは易経の中には見出せない考え方であろう。
なお、前章で示したように、李亦畲手抄本(郝和本)には、「動静之機」なる文言は見当たらない。
第6章 易経の中に見られる太極の記述
易経繁辞上伝に以下の記述がある。
是故易有太極。是生両儀。両儀生四象。四象生八卦。
是の故に易に太極有り。是れ両儀を生ず。両儀四象を生ず、四象八卦を生ず。
まず太極があって、そこから両儀が生まれ、両儀から四象が生まれ、四象から八卦が生じると記述する。両儀は陰陽を云い、八卦は小成八卦(乾 兌 離 震 巽 坎 艮 坤)を云う。
ここに引用した文言は、易経の基本的な枠組みなので、易経と関連させる様々な議論においては、この枠組みは守るべきと考える。従って、「無極から太極が生じて云々」なる議論はそれなりの論ではあるが、易経が云う太極とは別物と考えられる。
この点について参考文献9『太極拳理論の要諦』(p.104)では、
「太極は無極より生じたという解釈は、周敦頤の《太極図説》に対する王氏自身の理解である、と言えると思います。(中略)”太極”には、言わば、広義と狭義の二つの解釈があることと、王氏自身はその後者を取っていることです。ですから、《太極拳論》を勉強するに当たっては、我々も、諸説を忘れて、王氏の理解に従わなければならないということです。」
として、”太極”を理解するために議論を展開している。
この議論について、二つの指摘をしておこう。
1)著者自身が言及しているが、この”太極”概念は易経の中で記述されている太極の概念とは異なると云える。その場合、易経の小成八卦を使用する(十三勢、あるいは太極拳釈名)事とは両立し難いのではないか。
2)「太極者無極而生」については「太極は無極にして生ず」と理解すれば、易経中の太極概念とは矛盾しない。又、太極拳の動きを考える上でも、不都合は生じないと思われる。王氏自身がどのように解釈していたかは、後世からの一つの見方と云えるのではないか。
第7章 易経の中の陰陽と、象るということ
易では、陰陽の概念を使って、世の中に存在するものを
象るという事が行われる。例えば次のような具合である。
陽:天日昼男健剛夫君大進動真表開富右、
陰:地月夜女順柔婦臣小退静偽裏閉貧左。
「象る」とは、大きく分類すれば、陰的であり、あるいは陽的であるという程度に考えれば良いのではないか。従って、それは0と1に分類されるのではなく、0と100の分類でもない。0と100の間に分布していて、その分布の重心がどちらかに片寄っていると考えれば、陰と陽、0あるいは1の断定的な世界から離れて、地上界の諸相を陰陽的に見る事が容易になるだろう。
太極拳に関係する事象をとれば、
陽:奇剛健強動進升実円直長伸緩広、
陰:偶柔順弱静退降虚方曲短縮急狭。
陰陽の概念を応用して、剛柔、強弱、動静、進退、実虚、直曲、長短、伸縮、緩急などを相対するものとして理解すれば、よくわかるように感じられるという事ではないか。相対するものとして捉え、同時に中庸が大切であるとすれば、太極拳の中の細かな動きの多くはその合理性を容易に説明できるように思える。
第8章 『太極図説』の紹介
参考文献13に依り、『太極図説』について、簡単に紹介する。
著者の周敦頤(1017 - 1073)は宋学の祖とされる。『太極図説』は宋学確立の古典的地位を占める重要な著述とされる。
無極而太極。 太極動而生陽。 動極而静。 静而生陰。 静極復動。 一動一静。 互為其根。 分陰分陽。 両儀立焉。 陽変陰合。 而生水火木金土。 五気順布。 四時行焉。 五行一陰陽也。 陰陽一太極也。 太極本無極也。 五行之生也。 各一其性。 無極之眞。 二五之精。 妙合而凝。 乾道成男。 坤道成女。 二気交感。 化生万物。 万物生生。 而変化無窮焉。 惟人也。 得其秀而最霊。 形既生矣。 神発知矣。 五性感動。 而善悪分。 万事出矣。 聖人定之。 以中正仁義。 [聖人之道。仁義中正而已矣。] 而主静。 [無欲故静。] 立人極焉。 故聖人與天地合其徳。 日月合其明。 四時合其序。 鬼神合其吉凶。 君子脩之吉。 小人悖之凶。 故曰。 立天之道。 曰陰與陽。 立地之道。 曰柔與剛。 立人之道。 曰仁與義。 又曰。 原始反終。 故知死生之説。 大哉易也。 斯其至矣。
無極にして太極。 太極動いて陽を生じ、動くこと極まつて静なり。 静にして陰を生じ、静なること極まつて復た動く。 一動一静、互に其の根と為り、陰に分れ陽に分れて両儀立つ。 陽変じ陰合して水火木金土を生じ、五気順布し四時行はる。 五行は一陰陽也。 陰陽は一太極也。 太極は本無極也。 五行の生ずるや、各其の性を一にす。 無極の真と二五の精と妙合して凝る。 乾道は男と成り坤道は女と成り、二気交感して万物を化生す。 万物は生生して変化窮まること無し。 惟人のみは秀でたるを得て最も霊なり。 形既に生じ、神発して知る。 五性感動して善悪分れ、万事出づ。 聖人は之を定むるに中正仁義[聖人の道は仁義中正のみ。]を以てし、而して静[欲無きが故に静]を主として人極を立つ。 故に聖人は天地と其の徳を合せ、日月と其の明を合せ、四時と其の序を合せ、鬼神と其の吉凶を合す。 君子は之を脩めて吉なり、小人は之に悖つて凶なり。 故に曰く、天の道を立てて陰と陽とと曰ひ、地の道を立てて柔と剛とと曰ひ、人の道を立てて仁と義とと曰ふ、と。 又曰く、始を原ねて終に反る、故に死生の説を知る、と。 大なる哉易や、斯れ其の至れるなり。
朱子太極図説解から引用する。
無極而太極(無極にして太極):
上天の載は声も無く臭も無し。而も実に造化の枢紐にして品彙の根底なり。故に無極にして太極と曰ふ。太極の外に復た無極有るに非ざるなり。
朱子は「太極の外に
復た無極有るに
非ざるなり」と断定している。『太極図説』本文には、イマジネーション豊かに「動静」を云うが、朱子の解は、易経の基本の枠組みに沿うものであろう。
筆者は王宗岳によるとされる「太極拳論」中の記述「太極者無極而生」も、朱子太極図説解の解釈の範囲内と考えて、何の不都合もないと思う。朱子の解には異説もあるようだが、色々な解釈があるのは当然の事ではある。
品彙:種類別にしてまとめること。また、そのまとめたもの。たぐい。分類。
第9章 太極両儀八卦を現代物理学でなぞってみる
陽電子と陰電子が真空の大海から対となって発生する事象を、太極から両儀が生まれると見れば、それなりに関連づけられるような気がするが、これからは物質への進展が考えにくい。
そこで、第一世代クオークのアップ(u)とダウン(d)を両儀に相当すると考えてみよう。
物質の基本となる原子の主要な構成要素は、陽子と中性子であるが、
陽子は、2個のアップクオークと1個のダウンクオークで作られ、
中性子は、2個のダウンクオークと1個のアップクオークで作られる。
陰陽の三本の爻の組み合わせが、小成八卦である事を思い起こそう。これは、クオーク3個から陽子あるいは中性子ができる事に対応させられる。このように、最も基本となる物(両儀)の3個の組み合わせによって、物の基本を作るという共通点に驚かされる。
更に、クオークそのものは単体として観測できないが、同様に、易経の中の陰陽も形としては地上の世界には見えていない。
更に、驚くのは、多くの場合、陽子と中性子が組み合わさって地上に存在する物質(原子)となるのに対して、易の世界では、小成八卦が二つ組み合わさって、世界の諸物(大成六十四卦)が生じるとする。
3000年の昔に考えられた易経の三段階による世界の創造(陰陽、小成八卦、大成六十四卦)の中に、現代物理の考え方(クオーク、陽子と中性子、原子)が垣間見える事には、驚かされる。
第10章 参考になるかもしれない現代物理学の考え方
20世紀になって、物理学は飛躍的な大変革を起こした。それまでの古典力学に対して量子力学が登場したのである。現代物理学の一つの特徴は、確率的な考え方と云える。この考え方は、概念としては、参考になる場合があるかもしれないと思われるので、簡単に紹介しよう。注意すべきは、ただ概念として参考になるという事であって、無闇に拡張して考える事は危うい。
図2は古典的な存在の概念を表す。ある定まった一点の場所に、均一的に物体が存在する。
図3は現代的な存在の概念を表す。ある広がりを持つ場所に、物体は確率的な広がりを以って存在する。目に見える範囲は、存在確率が高い部分だけと考えると、目に見えるよりもずっと広い範囲にわたって物体は存在していると考える事ができる。
図4は、図3に示された物が、隣接して二つ存在する場合を表す。例えば、 AさんとBさんは離れているように見えるが、存在の広がりを考えると、確率が低い裾野の部分が重なっている。Bさんの感覚が鋭ければ、Bさんは、離れているはずのAさんの存在をAさんの裾野から感じる事ができる。ミクロな電子の如き場合には、裾野の重なりは現実に反映する事が、実験的に証明されている。
図5は「動」と「静」と云う二つの概念に存在確率を応用する。易経の中で、諸物を象るという作業があったが、それと似たような拡張と考えてほしい。「動」の中に「静」があるとの表現は、二つが重なっている部分が存在すると考えると、わかりやすいかも。
図2. 古典的な存在の概念。定まった位置に定まった大きさの物が存在する。
図3. 現代的な存在の概念。存在は、確率的に存在すると考える。即ち、ある範囲にわたって広がりを持つ物が存在する。中心から離れると、存在する確率は減少する。
図4. 離れて相対する二人の存在は、存在確率の裾野の部分で重なっていると考える。目で見えるのは、中心の存在確率が大きい部分だけであるが、存在確率の小さい部分で重なっていれば、察知する感覚が鋭い場合には、相手の少しの動きをいち早く察知できるかもしれない。
図5. 「動」と「静」と云う二つの概念に存在確率を応用する。「動」の中に「静」があるとの表現は、二つが重なっている部分が存在すると考えると、わかりやすいかも。
第11章 波動・振動と解釈の拡張
世に存在する電磁波の類は、電波・光・X線・γ線などと呼ばれて区別されているが、その違いは単にその周波数(振動数)の違いだけに由来することを、多くの方は御存知でありましょう。電波がどのような仕組みから発生するかを考えると、概念としての様々な応用が考えられるので、簡単に述べる。
ある長さの棒状の両端に正と負の電荷が存在すると考える。電荷が棒の両端を往来すれば、そこから電磁波が生じる。電磁気学では、この仕組みを電気双極子と呼んでいる。このように、正負の電荷から作られる電気双極子が振動すれば、そこに電磁波と呼ばれる波が生まれる。
波の振動を特徴づけるのは、周波数(振動数)、振幅(強度)、位相の三つのパラメータである。この中で、位相とは、波の一周期(360度)の中のどの位置にあるかという事であるが、普通は観測しにくい。ただ、もしこれを感知出来れば、一周期の中を例えば360程度に分割できるので、利用する場合の(細かさという意味の)性能が飛躍的に向上する。
ここまで、大事な事は、一対になっている陰陽の二つの電荷を振動させると、電波が出るという事である。この現象の仕組みを拡張して考えてみよう。世の中に陰陽を象る事象は無数にあるが、それらのペアの振動状態に於いては、電波に相当するような波が出ていると考える。これは事実としてそうであると云うのでは無く、そのように考えると理解しやすい場合があるのではないかという事である。
例えば、「動」と「静」と云う二つが混在していると、その変化のスピードと強さに対応する「動静電波」が周囲に発散する。それを感知するには、「動静電波」の周波数を感知できるように、受け手側のアンテナを調整しなければならないし、アンテナの感度を向上させれば、少しの「動静電波」を感知できるようになる。これが技量の向上である。
加えて云えば、連続的な電波を得るには、持続的な振動が必要であるが、短い長さの電波を得るには、単発的な振動で十分である。即ち、陰陽を象る二つの事象が素早く変化すれば、対応して何らかの波が発せられるという事になる。これはバーストあるいはパルスと称されるようなもので、その特徴は、発生する波の周波数が広く分布している事である。受け手側から見れば、自分のアンテナの感度の良い周波数部分を使って検知できる可能性があるという事になる。
世の中には一見怪しげな波動論が溢れているが、以上のような考え方をすれば、アナロジーとしては、ありうるとも云えよう。
太極拳に関係する陰陽事象例:
陽:奇剛健強動進升実円直長伸緩広右
陰:偶柔順弱静退降虚方曲短縮急狭左
第12章 王宗岳「太極拳論」等の異種バージョンについて
王宗岳「太極拳論」には、内容の語句が異なる版があることを
第4章において紹介した。筆者は先に李亦畲の「太極拳釈名」についての小論を公開した。その中で、既に広く知られている複数の似かよった抄本について比較検討したが、その検討作業において、内容的に全く異質の変形バージョンも存在する事を知ったので、
太極拳釈名と易の中に付記した。「太極拳釈名」の変形バージョンは、八門と八卦の並びとの対応に先天図を使っている。それに対して、李亦畲の郝和本は後天図を使っている。
王宗岳「太極拳論」と李亦畲「太極拳釈名(十三勢)」は、一緒に引用掲載される事が多いので、これまでに目を通した諸本がどのように記述しているかについて、まとめておく。
比較する箇所は、「太極拳論」については、
1:「動静之機」があるかないか。
2:「理唯一貫」の記述について。
3:「虚領頂勁」か、「虚霊頂勁」か。
4:「一羽不能加、蝿虫不能落」か、「一羽不能加、一蝿不能落」か。
5:「非関学力而有為也」部分の「有為也」の記述について。
6:「陽不離陰、陰不離陽」か「陰不離陽、陽不離陰」か。
「太極拳釈名」については、
7:八門と八卦の並びが後天図か先天図か。
手元にある諸本がどのような表記になっているかをまとめて図6に示す。
比較項目の中で、最初の「動静之機」の有無の項と最後の後天図の並びか先天図の並びかの項は、参考文献13『太極図説』との関わり具合の視点から評価が可能ではないか。
図6. 手元にある諸本について調べた、王宗岳「太極拳論」と李亦畲「太極拳釈名(十三勢)」の異種バージョンの比較表。
第13章 王宗岳「太極拳論」等の異種バージョンの誤謬の顛末
前章では、王宗岳「太極拳論」と李亦畲「太極拳釈名(十三勢)」の異種バージョンについて、既刊の太極拳関連本にどのように記述されているかについて調べた。
異種バージョンの由来についてその後得られた結論を最初に記す。
唐豪・顧留馨『太極拳研究』(参考文献2)の記述によれば、1921年に出版された許禹生著『太極拳勢図解』の中で、彼は入手したオリジナル原稿への加筆改変を憶測によって行った。自分の旧説の非を1939年に彼は認めている。
異種バージョンの特徴として次の4点が指摘できる。
1:「太極拳論」の本文に、「動静之機」が挿入されている。
2:「太極拳論」の本文に、数カ所のある一定の変更部分がある。
3:「太極拳釈名」の本文中の八門と八卦の並びが先天図に依っている。李亦畲の郝和本は後天図に依っている。
4:異種バージョンには、「武当山張三豊老師の遺論」等と記述されている場合が多い。
筆者注:張三豊は、張三峰、張三峯と記述される場合がある。
こうした差異が生じた理由を推測させる記述が参考文献2(唐豪・顧留馨『太極拳研究』p.127)にあるので、抜粋翻訳して引用する。
顧留馨附考:1921年、許禹生の『太極拳勢図解』(北京版)の標題「太極拳経」の最初の段落は「太極者、无極而生、動静之機、陰陽之母也」であるが、「動静之機」の四文字が加筆されている。
篇の末尾の注には「この論は、三豊先生の弟子となった王宗岳によって書かれました」と記されている。
思うに、張三豊が太極拳の創始者であると臆説を記し、また、王宗岳は元末期と明初期に張三豊の弟子であると臆測している。
許氏の書に張三豊と付け加えられて以来、その後の他の太極拳に関する書がしばしば引用を続けた結果として、ここに太極拳創造の栄誉はずっと張三豊に帰することになった。
しかし、許氏は陳発科老師から陳式太極拳を学び研究した後、初めて太極拳は陳氏の家伝であることを知る。
1939年、許氏は編著『太極拳』(北京版)の「序文」の中で、次のように述べている。
「年来陳氏太極拳術を研究して頗る得る所があったと自覚した。陳氏の拳には現在三種類の家伝が残る:太極長拳、太極炮拳、太極十三式架子である。十三式は五路を共有しているが、多くは失伝している。現在演じられる拳は、僅かに十三式の中の套路であって、これらは楊氏所伝と比べて少しの違いはあるが大方は同じである。加えて、炮拳一路(陳氏現名の第二路)である。全体として二路が残存するにすぎず、その余は譜だけが残る。」
許氏は自分の旧説の誤りを正す勇気を持っていたが、その後、許氏の旧説を転用したり、更に内容を変えたりして、多くの太極拳書物が出版された。その結果として、太極拳の源流について、かつて多くの説が乱れてごたごたした。
簡単にまとめれば以下の如くであろう。
許氏は、入手した拳論の草稿に「動静之機」の四文字を加筆挿入し、憶測で張三豊の遺稿とする記事を挿入して、1921年に『太極拳勢図解』を出版した。その後、1939年に自分の旧説の誤りを編著『太極拳』の「序文」の中で勇気を以って認めた。
許禹生が旧説の誤りを勇気を以って認めた理由の手がかりと思われる記述がある。参考文献8『太極拳術』の中で、顧留馨は次のように記述する。
1932年1月初めに唐豪は陳子明に随って陳家溝に行き、太極拳史料を捜し集めた。
事態の推移を年代順に並べてみよう。
1:1921年 許禹生、『太極拳勢図解』初版発行。「動静之機」の挿入と「張三豊」との関係を憶測で記述する誤りが含まれていた。
2:1925年 陳微明、『太極拳術』発行。拳論部分の文言は、武禹襄と李亦畬の原本に沿う意味で、ほぼ正しい記述と思われる。
3:1932年 唐豪は陳家溝に行き、陳式の太極拳史料を捜し集めた。
4:1934年 許禹生、『太極拳勢図解』第5版発行。誤りの訂正はされていない。
5:1939年 許禹生、編著『太極拳』出版。その「序文」の中で、『太極拳勢図解』の記述の非を認める。
6:1964年 唐豪・顧留馨、『太極拳研究』。「附考」の中で、許禹生が旧説の非を認めた顛末を詳述。
1921年発行『太極拳勢図解』と1925年発行『太極拳術』とに記述されているほぼ同名の拳論の文言には大きな差異がある。研究者の唐豪は、1932年に陳家溝に赴き、検証作業を行って、全てを解明したと推定される。許禹生は旧説の非を1939年に公表した。顧留馨の「附考」が公表されたのは、唐豪没後の1964年である。
唐豪・顧留馨著『太極拳研究』が1964年に出版されたあとでも、多くの太極拳関連本に、『太極拳勢図解』の影響が散見される。唐豪・顧留馨は『太極拳研究』の中で、「妄加牽連、不値一駁(誤って関連させた妄説で、反駁する価値もない)」と、許氏の旧説に起因するごたごたを評している。
今日の著作権を尊重する見方をすれば、「許禹生は、おそらく著者がわかっている草稿を入手後に、著者として「張三豊」を示唆する文言を付け加え、更に内容を改竄して、自分の著書の中の重要部分として公表した」となる。従って、意図的な悪質な著作権の侵害とみなされる可能性がある。
唐豪・顧留馨著『太極拳研究』の「前言」の中で「王宗岳・武禹襄・李亦畬の拳論の本来の面目を回復して、太極拳の源流についての憶説と歪曲部分を訂正した」と記している。
「述而不作(述べて作らず)」(論語)は中国の古い言葉であり、引用転載自体を適切に行えば、伝統的な手法とも云える。
関係する人物の生没年を付記する。
許禹生(1879-1945):楊露禅ー楊健侯の系統
陳発科(1887-1957)
陳微明(1881-1958)
陳子明(?-1951)
唐豪(1897-1959)
顧留馨(1908-1990)
主要な関係者が記載されている「太極拳主要伝逓系統表」(参考文献8から転載)を引用して、理解の一助とする。
図7. 太極拳主要伝逓系統表(参考文献8から転載)。
参考文献
1. 余功保、『中国太極拳事典』、ベースボール・マガジン社、2013年。
2. 唐豪・顧留馨、『太極拳研究』、人民体育出版社、1999年(初版1964年)。
3. 郭福厚、『太極拳秘訣精注精訳』、人民体育出版社、2015年。
4. 楊澄甫、『太極拳体用全書』、台湾逸文、2001年(初版1934年)。
5. 呉公藻、『太極拳講義』、上海書店、1985年(1936年上海鑑泉太極拳研究社)。
6. 笠尾恭二、『中國武術史大観』、福昌堂、1994年。
7. 李天驥、『太極拳の真髄』、BABジャパン出版局、1992年。
8. 顧留馨、『太極拳術』、上海教育出版社、2008年(初版1982年)。
9. 銭育才、『太極拳理論の要諦』、福昌堂、2000年。
10. 『太極拳全書』、人民体育出版社、1988年。
11. 陳微明、『太極拳術』、致柔拳社、1925年(北京科学技術出版社、2016年)。
12. 李亦畲、『王宗岳太極拳論』、北京科学技術出版社、2016年。
13. 西晋一郎・小糸夏次郎 訳註、『太極図説・通書・西銘・正蒙』、岩波文庫、1938年。
14. 郭福厚、『太極拳推手訓練秘訣』、BABジャパン出版局、1999年。
15. 楊進、『至虚への道』、二玄社、2009年。
16. 許禹生、『太極拳勢図解』、体育研究社、1921年(北京科学技術出版社、2018年、1925年再版)。
17. 許禹生、『太極拳勢図解』、体育研究社、1921年(山西科学技術出版社、2006年、1934年第5版)。
18. 楊名時、『太極拳のゆとり』、文化出版局、1980年。
19. 加藤湖山、『易経ノート』、Apple Books Store、2021年。
易経に関係する著者のweb:
太極拳釈名と易
易経の先天図八卦の並びと陰陽魚太極図
王宗岳「太極拳論」等の異種バージョンの誤謬の顛末
武禹襄「太極拳解」を読む
武禹襄「十三勢説略」を読む
「十三勢行功歌」を読む
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2021年
著者:加藤湖山
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