御来訪有難うございます。 2021年10月公表、2023年2月第13章加筆 トップ「湖山のきょう底」へ戻る
『中国太極拳事典』(参考文献1)によれば、「太極拳論」を以下の如く記している(抜粋)。太極拳書の名作。太極拳家・王宗岳の作。この論は太極拳の道理、方法の良き標準として捧げられたもので、深遠で、系統的で詳細な初めての太極拳技の理論著作で、王宗岳はこれにより太極拳の重要な地位を打ち立てた。この論は陰陽の理論で指導し、太極拳の原理、特徴、練習方法、注意事項を論述し、練習と技撃中の犯しやすい欠点を分析している。文章は流暢で、その中の多くの字句は、後世に教学の中で繰り返し引用される名言となっている。各派の太極拳の専門家がこの文を注釈した作品は非常に多い。事典が言及するように、王宗岳の「太極拳論」には複数のバージョンがあって(第4章)、混乱を招きやすい点がある。字句の多少の相違は、大きなトラブルを生むわけではないが、初学の筆者には興味を覚える点が読み取られる。ここでは、「太極拳論」についての参考文献を活用して、全文の理解を試みたい。 「太極拳論」は小論ではあるが、なかなか敷居が高い。理解の一助となるべく、いくつかの参考章を用意したので、最初に本論の全体構成を記す。 本論の全体構成。 第1章 王宗岳「太極拳論」を理解する為に必要な諸知識(重要な術語にはインデックスをつけました) 以弱勝強 捨己従人 用意不用力 人不知我、我独知人 一羽不能加(鋭敏な技術レベル) 懂勁 知己功夫 知己知彼 虚領頂勁、気沈丹田 立如平準、活似車輪 不偏不倚 由着熟而漸悟懂勁、由懂勁而階及神明 忽隠忽現 雖変化万端、而理唯一貫 虚実 左重則左虚、右重則右杳 無過不及 陰陽相済 動之則分、静之則合 人剛我柔謂之走、我順人背謂之粘 察四両撥千斤之句、顕非力勝 隨曲就伸 毎見数年純功、不能運化者、率皆自為人制 双重之病未悟耳 偏沈則隨、双重則滞 欲避此病、須知陰陽 本是捨己従人、多誤捨近求遠。所謂差之毫厘、謬之千里 第2章 王宗岳の太極拳論 第3章 筆者の感想:「太極拳論」の合理的な側面について 第4章 「太極拳論」の冒頭部分「太極者無極而生。動静之機、陰陽之母也。」の検討 第5章 「太極拳論」の冒頭部分「太極者。無極而生。」の読み方について 第6章 易経の中に見られる太極の記述 第7章 易経の中の陰陽と、象るということ 第8章 『太極図説』の紹介 第9章 太極両儀八卦を現代物理学でなぞってみる 第10章 参考になるかもしれない現代物理学の考え方 第11章 波動・振動と解釈の拡張 第12章 王宗岳「太極拳論」等の異種バージョンについて 第13章 王宗岳「太極拳論」等の異種バージョンの誤謬の顛末
「有力打無力、手慢譲手快、是皆先天自然之能、非関学力而有為也。」 力有る者が力無き者を打ち、手の慢き者が手の快き者に譲る。これ皆、先天自然の能。力を学ぶことに関するに非ずして為す有るなり。 力ある者が力無き者を打ち倒し、手の速き者が手の遅き者に勝つ。こんな勝ち方は先天自然な事であって、何も技を学ぶ必要などはない。即ち、太極拳は、力無きものが力ある者に勝つ為の技術である。従って、力に対しては力で対抗するのではなく、技で対抗する。では、具体的にはどうすればよいのか。一言で言えば、「相手の力を受け流し続け、相手がバランスを崩した一瞬を捉えて、すかさず小さな力で破る」。
ルール:相手と向き合って立つ。肘を直角にして、両手の平を相手と軽く接触させる。両肘の屈伸により、両手の平は同期させて直線的に前後に動かし、相手の手の平と押し合う。立つ姿勢のバランスを崩せば負けとなる。 (このルールでは、直線運動だけを考えている。両手を同期させないルールならば、身体の回転運動まで入れる事になる。更に、手の左右への開合を許す拡張などが考えられる。)二人が両手の平を合わせて、相手に向かって同時に押し合えば、体重が重くて力が強い者が押し勝つでしょう(これこそ、太極拳がもっとも嫌う病とも云える動き方です)。ところが、手の平を後ろに引く事を考えると、事情が違って来ます。相手の手の平が強い力とスピードで押し出された瞬間に、相手のスピードとほとんど同じ程度のスピードで、自分の手の平を後ろへ引けば、相手はバランスを崩して前にのめってしまい、負けとなります。この場合、自分は相手に対して何も力を使わずに、強い力の者を負かしています。逆に、相手が両手を後ろに引き過ぎてバランスを崩した時は、そこを少しの力で押せば、勝つ事が出来ます。 太極拳は、相手が先に動き過ぎてバランスを崩した所をすかさず小さな力で破る事を目標とします。 以上の簡単な動作の中には太極拳の核心的な動き・技と考え方が含まれています。
勁:太極拳の特殊力学構造。一定の訓練程式と方法を通して、力の大小、方向、作用点と動態の伝わりなどが高まり、改善される。これは一種の昇華された力である。(抜粋)簡単に云えば、太極拳の中で用いられる我彼の強さの目処となる「力」を云います。 「力」と云えば、普通はその瞬時の力の大きさを指しますが、私見を記せば、太極拳の中では、ある微小な時間幅の中で認識出来る「力の動き(推移)」を云います。ベクトルとしての力(力の大きさと方向)と、更に、その力を与える為に動く物(手など)の速度(スピードと方向)を含みます。 この事を次のように表現しています(参考文献14、p.18)。
相手の勁を正しく認識する事を「聴勁」と云います。聴勁とは、相手と触れた瞬間に、相手の力の方向、目標、ストロークの長短、力量の大小を正確に判断する事です。聴勁を正しく素速く行う為には、前提として、自分の正確な姿勢と動作が意を以って行える事が必要です。例えば、長さを正しく測定する為には、正しい物差しを正しく使わなければなりません。自分の物差しを正しくして、且つ、意識を以って正しく運用出来なければいけません。この事を 「知己功夫」(己れの功夫(技術レベル)を知る) と云います。 相手をよく知る事は「知彼功夫」(彼の功夫(技術レベル)を知る)と云います。「知彼功夫」に必要となるのが、「聴勁」の高いレベルと云えましょう。 従って、日々の練習には、 「知己知彼」(己れを知り、相手を知る) が必要となります。 更に、自分の物差しを正しくするという意味で、自分の正確な姿勢が出発点となります。 「虚領頂勁、気沈丹田」(頂勁を虚領にして、気は丹田に沈む)
虚領頂勁:太極拳の練習要領。また"虚霊頂勁"とも書く。虚霊頂勁になるには、身形上の要求については、脊椎はゆるめてまっすぐ、両肩は平らに穏やかで端正に、うなじを立てて、頭頂の百会はやや上へまとめ上げるように、下顎はわずかに内へ収め、全身はリラックスして、両足は平らに地を踏み、頭頂は天にあり、足は地に入る感じである。虚霊頂勁の本質は更にもうひとつの状態を指し、その状態の下で、身体を展開して精神・意識を充満すれば、筋骨皮の訓練と同時に、精気神も鍛錬できる。拳の訓練のたびに起勢からこの状態で始めれば、収勢で終わるときは整っている。《十三勢歌訣》中にいう"尾閭中正神貫頂、満身軽利頂頭懸(尾閭は中正にし、神は頂を貫く、満〈全〉身は軽利で 頭は頂から懸ける)"はこの意味を指す。(参考文献1、抜粋) 虚:虚にして、上にひっぱられる感じ。 領:率いる。 頂:頭のてっぺん。 勁:力。 気沈丹田:ここでいう丹田とは小腹部。気沈丹田とはすなわち"実腹"である。"丹田"は 中国伝統内功の"気海"を修め、"気沈丹田"は全身に気を巡らせることの核心条件である。(参考文献1、抜粋)簡単に云えば、精神と肉体ともに力を抜いてまっすぐ立ちなさいという事でしょうか。 このような正しい動作がどのように見えるかを喩えて表現しています。 「立如平準、活似車輪。」(立てば平準の如く、活けば車輪に似たり。) 立つ姿は天秤のごとくバランスよく立身中正で左右のバランスに鋭敏であり、動けば、車輪のような滑らかな回転(円運動のごとき)を示す。 更に、動作が保つべき原則が述べられています。 「不偏不倚」(偏せず倚らず) かたよらず、寄りかからずですから、体(あるいは技など含む全て)がバランスを保つように、重心は中正を保つようにということでしょう。易経では、「中正」(あるいは「正中」)とは、あるべき場所(真ん中の位置)にあるべき物が位置すると云う事で、最も尊重される状態と云えます。 こうした訓練を「慢」い動きから始めて積み重ねる事によって、意識した動きを、ほとんど無意識の状態で快く行えるレベルに到達します。これを「太極拳論」は次のように表現しています。 「由着熟而漸悟懂勁、由懂勁而階及神明。」(着、熟するによりて、漸く懂勁を悟る。勁を懂ることによりて階は神明に及ぶ。) 勁について、「ある微小な時間幅の中で認識出来る力の動き(推移)」と記しました。「微小な時間幅」を限りなく短くして、しかも正しく「力の動き(推移)」を認識出来る段階が、神明のレベルと云えましょう。 神明:懂勁の高度な段階・レベルを云う。神業のように極めて高度な技芸を云う。
動之則分:動作初期においては、身体の根幹部分を中心にして、まわりに付随するパーツ部分が動作を開始するが、ひとつのパーツの運動には、反対の動作要求を持つ別のパーツの運動をともなう。分かれるのは、動作の要素であり、併せて平衡の概念を包括しています。(参考文献15、抜粋)簡単に云えば、次の備えも同時に始めよ、その結果として「不偏不倚」(バランス)を保ち、「忽隠忽現」て、「陰陽相済」しなさいと。全体としては核心的なすごい事を云っているわけです。重心移動がないように、運動量が保存するように動きなさいと云えば、体操には応用できますが、武術にはなりません。 「静之則合」は動作の収束を解説している部分との事ですから、その意味は同じと思います。
太極者無極而生。陰陽之母也。 太極は無極にして生ず。陰陽の母なり。【意訳】 太極は無極にして、陰陽の母である。
動之則分、静之則合。無過不及、隨曲就伸。 これを動かさば則ち分かれ、これを静むれば則ち合す。過不及無く、曲に随い伸に就く。【意訳】 動き始める時は、その反対の意味を持つ動作が分かれるようにして伴い、動きが終わる時には、その反対の動作を合わせるごとく伴う事により、全体の平衡を保つ。その動きには、過ぎる事も及ばぬ事もなく、相手が曲ならばそれに随い、相手が伸びればそれに沿って動く。
人剛我柔謂之走、我順人背謂之粘。動急則急応、動緩則緩隨。雖変化万端、而理唯一貫。 人、剛にして、我、柔なる、これを走という。 我、順にして、人、背なる、これを粘という。動くこと急なれば、則ち急にして応ず。動くこと緩なれば、則ち緩にして随う。変化万端といえども理はただ一つに貫かれる。【意訳】 相手が強い力(剛)で攻撃して来たときに、自分は柔で対応すれば、それを防御(走)とする。自分が順当で安定した状態であって、相手の姿勢や状態が順当でなくバランスを崩している状態であれば、攻撃が可能なポジション(粘)となる。相手が速く動けば、自分も速く動き、相手がゆっくり動けば、自分もそれに従う。変化万端すれども、そのもとの道理は一つである。
由着熟而漸悟懂勁、由懂勁而階及神明。然非用力之久、不能豁然貫通焉。 着、熟するによりて、漸く懂勁を悟る。勁を懂ることによりて階は神明に及ぶ。然るも力を用いることの久しきに非ざれば、豁然として貫通する能わず。【意訳】 技に習熟するに従って、次第に懂勁という事が理解できる。勁を懂ることが出来れば、太極拳の極意に到達する。しかしながら、懂勁を悟るべく力を用いる事についての長い研鑽を積まなければ、突然開けるようにこの境地に達することはできない。
虚領頂勁、気沈丹田。不偏不倚、忽隠忽現。左重則左虚、右重則右杳。仰之則弥高、俯之則弥深。進之則愈長、退之則愈促。 頂勁を虚領にして、気は丹田に沈む。偏せず倚らず、忽ち隠れ忽ち現る。左重ければ則ち左は虚ろ、右重ければ則ち右は杳し。これを仰ぎては則ち弥高く、これを俯しては則ち弥深し。これを進みては則ち愈長く、これを退きては則ち愈促す。【意訳】 首を弛め伸ばして無念無想でゆったり立ち、気を丹田に沈める。かたよらず、寄りかからず、体がバランスを保つように、重心は中正を保つようにして、勁力の運用は、変化万端して捉えがたく、さっと隠れさっと現れるごとく。 左(手)に相手の重さを感じたならば、左側が崩れやすくなるので、そうならない為に左を虚にする。右を重く感じれば、右を虚にして、相手からは暗闇と同じように見えなくする。 相手が上に向かうとすればますます高く、下に向かうとすればますます低く、前に進めばますます前に進ませ、退けばますます退くように、すべて相手の動きに随う。
一羽不能加、蝿虫不能落。人不知我、我独知人。英雄所向無敵、蓋皆由此而及也。 一羽も加わる能わず、蝿虫も落ちる能わず。人、我を知らず、我独り人を知る。英雄の向かうところ敵無きは、蓋し皆これによりて及ぶなり。【意訳】 一枚の羽の重みが加わる事も感じられて、蝿さえも勝手に止まる事を許さないほどに、全身の皮膚感覚と知覚感覚は鋭敏にする。人(相手)は我を知らず、我が独り人を知る。(「以静制動」「捨己従人」を云う)。英雄が向かうところ敵無しとは、確かに全てこの事によるのであろう。
斯技旁門甚多、雖勢有区別、概不外壯欺弱、慢譲快耳。有力打無力、手慢譲手快、是皆先天自然之能、非関学力而有為也。察四両撥千斤之句、顕非力勝、観耄耋能禦衆之形、快何能為。 この技の旁門は、甚だ多し。勢は区別ありといえども、おおむね壮は弱を欺き、慢は快に譲る耳に外ならず。力有るが力無きを打ち、手の慢きが手の快きに譲る。これ皆、先天自然の能。力を学ぶことに関するに非ずして為す有るなり。察せよ、四両も千斤を撥くの句を、力に非ずして勝つこと顕らかなり。観よ、耄耋の能く衆を御するの形を。快なるも何ぞ能く為さんや。【意訳】 武術の流派はとても多く、その型(技)も多様だが、おおむね強い者が弱い者をいじめ、技の速い者が技の遅い者を負かしているにすぎない。力ある人が力なき人に勝ち、遅い人が速い人にやられる。こうした事例は全て自然の能力であって、個人が学んで得られる技術によって、為しているものではない。四両(約200g)の軽い重さで千斤(約500kg)を彈くと云う句を思い起こして下さい。ここでは、力を使わない事によって勝つことは明らかである。弱い老人が大勢を意のままに制する様をごらんなさい。単に速いからといって、どうして勝つ事ができましょうぞ。
立如平準、活似車輪。偏沈則隨、双重則滞。 立てば平準の如く、活けば車輪に似たり。沈みに偏れば則ち随い、双重なれば則ち滞る。【意訳】 立つ姿は天秤のごとくバランスよく立身中正で左右のバランスに鋭敏であり、動けば、車輪のような滑らかな回転(円運動のごとき)に似た様となる。相手の力を受けてその方向にゆるみ沈めば相手に逆らわない「隨」となるが(正しい受け方)、相手の力を正面から受けて張り合えば、それは間違いの受け方で、滞ることになる。
毎見数年純功、不能運化者、率皆自為人制、双重之病未悟耳。 毎に見る、数年純功するも運化を能わざる者は、おおむね皆自ら人に制せらるるを。双重の病、いまだ悟らざる耳。【意訳】 何年も練習するが上達できない人がいつも存在する。その人々は、自分から進んで人に制せられているのだ。上達しない理由は、双重の病を未だ理解していない事につきる。
欲避此病、須知陰陽、粘即是走、走即是粘、陽不離陰、陰不離陽、陰陽相済、方為懂勁。懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至従心所欲。 この病を避けんと欲すれば、須らく陰陽を知るべし。粘はすなわち是れ走、走はすなわち是れ粘。陽は陰を離れず、陰は陽を離れず、陰陽相済して、まさに懂勁となす。勁を懂りてのちは、いよいよ練ればいよいよ精なり。黙と識り、揣摩すること漸くにして心の欲するところに従うに至る。【意訳】 この病を避けようとするならば、すべからく陰陽を知らなければならない。粘は走であり、走もまた粘である。陰陽は不離であり、陰陽相済して、はじめて懂勁と呼ばれる高い技術レベルに達する。勁を悟って後は、修練を積めばますます技は精緻となる。黙々と認識して、推量しながら研鑽すれば、次第に技は心が欲するままに、自由自在に至る。
本是捨己従人、多誤捨近求遠。所謂差之毫厘、謬之千里。学者不可不詳弁焉。 是為論。 本はこれ己を捨てて人に従うを、多くは誤りて近きを捨てて遠きを求む。いわゆる差は毫厘、謬りは千里なり。学ぶ者、詳らかに弁ぜざるべからず。 是を論と為す。【意訳】 太極拳では、元来は己を捨てて、人(相手)に従う事が一番大切なのに、多くの人は、近くに求めるものがあるのにこれを捨てて、わざわざ遠くに求めようとするという、愚かな事を行っている。ことわざに云うように、いわゆる、誤りの始めの差は僅かであるのに、やがてはとても大きくなるのである。太極拳を学ぶ者は、このことを詳しくわきまえなければならない。 以上を以って、本論とする。 【語句】 無過不及:過も不及も無い。過ぎることと及ばないことが無い。 剛:力が強いこと。硬いこと。 柔:綿のような柔軟さ。 順:適正。順う。 背:不適正。 走:攻める。「捨己従人」を云う。 粘:守る。 着:技。 懂勁:勁を懂る。勁の運動法則を理解し、把握すること。 勁:太極拳の特殊力学構造。一定の訓練程式と方法を通して、力の大小、方向、作用点と動態の伝わりなどが高まり、改善される。これは一種の昇華された力である。簡単に云えば、太極拳の中で用いられる我彼の強さの目処となる「力」。 懂:悟る。理解する。 神明:懂勁の高度な段階。 豁然:疑いや迷いが突然消えるさま。 虚領頂勁、気沈丹田:第1章の術語解説参照 不偏不倚:かたよらず、寄りかからず。体(あるいは技など含む全て)がバランスを保つように、重心は中正を保つように。 忽隠忽現:勁力の運用を云う。変化万端して捉えがたい様の比喩。 一羽不能加、蝿虫不能落:一枚の羽の重みが加わる事も感じられて、蝿さえも勝手に止まる事を許さないほどに、全身の皮膚感覚と知覚感覚が鋭敏な事。聴勁が鋭敏な事を云う。 人不知我、我独知人:相手を先に動かし、我は相手の動きに従って動くから、相手は我の動きを認識できず、我だけが相手の動きを知る。「以静制動」「捨己従人」を云う。 杳:暗。暗くてはっきりしないさま。 慢:ゆっくり。 快:はやい。 四両撥千斤:四両(約200g)の軽い重さで千斤(約500kg)を彈く。 耄耋:衰え弱った老人。 黙識:口に出さずに心中に会得すること。 揣摩:あれこれとおしはかって推量すること。 捨己従人:先に動く相手の動作に従って自分は後から付いて動く。 捨近求遠:近い所に求めるものがあるのに、わざわざ遠くに求めようとする。 毫厘:わずか。 差之毫厘、謬之千里:誤りの始めの差は僅かであるのに、やがてはとても大きくなる。 【全文】 ほぼ郝和本による(参考文献12)。
山右王宗岳太極拳論 太極者。無極而生。陰陽之母也。動之則分。静之則合。無過不及。隨曲就伸。 人剛我柔。謂之走。我順人背。謂之粘。動急則急応。動緩則緩隨。雖変化万端。而理唯一貫。 由着熟而漸悟懂勁。由懂勁而階及神明。然非用力之久。不能豁然貫通焉。 虚領頂勁。気沈丹田。不偏不倚。忽隠忽現。左重則左虚。右重則右杳。仰之則弥高。俯之則弥深。進之則愈長。退之則愈促。 一羽不能加。蝿虫不能落。人不知我。我独知人。英雄所向無敵。蓋皆由此而及也。 斯技旁門甚多。雖勢有区別。概不外壯欺弱。慢譲快耳。有力打無力。手慢譲手快。是皆先天自然之能。非関学力而有為也。察四両撥千斤之句。顕非力勝。観耄耋能禦衆之形。快何能為。 立如平準。活似車輪。偏沈則隨。双重則滞。毎見数年純功。不能運化者。率皆自為人制。双重之病未悟耳。 欲避此病。須知陰陽。粘即是走。走即是粘。陽不離陰。陰不離陽。陰陽相済。方為懂勁。懂勁後愈練愈精。黙識揣摩。漸至従心所欲。 本是捨己従人。多誤捨近求遠。所謂差之毫厘。謬之千里。学者不可不詳弁焉。 是為論。
この病を避けんと欲すれば、須らく陰陽を知るべし。粘はすなわち走、走はすなわち粘。陰は陽を離れず、陽は陰を離れず、陰陽相済して、まさに懂勁となす。陰陽を知るとは、太極の陰陽を知らねばならないという意味ではない。陰陽が象る諸物についてよく知りなさいという意味であろう。すなわち 太極拳に関係する事象をとれば、 陽:奇剛健強動進升実円直長伸緩広、 陰:偶柔順弱静退降虚方曲短縮急狭。 これらの対になる運動について、よくよく考えなさいという意味であろう。そして「陰陽相済」が大切だと云う。これは物理の運動法則に合致することが大切だと理解される。特に保存則が大切と強調しているようにも感じる。 簡単な例を挙げれば、右手を右に出す場合、その反対の左にも左手を出して、運動量の保存則を満たす(陰陽相済)ようにしなければ、バランスが崩れて、(部分的にあるいは重心が)動いてしまう。この場合、右と左の動きを形からみて必ずしも対称にする必要はなく、運動量(質量と速度の積)の保存則が成立するように動けば良いのである。従って、外見の変化の仕方は無数に存在する。このあたりが、「黙識揣摩、漸至従心所欲」と記す所以であろうと推測する。 回転運動の場合には角運動量(回転に関する質量もどきと速度の積)の保存則を考えねばならない。角運動量の保存の例として、フィギアスケートの回転を例にすればわかりやすい。回転のスピードを増す場合に、スケーターはジャンプすると同時に伸ばした腕を縮めるという動作をする。これは、角運動量保存則が成り立つ場合に、回転に関する質量もどきを小さくする事(腕を縮める)により、回転速度が大きくなるという事実を応用している。あるいは、回転椅子の上に座り、前方に伸ばした両腕を右に回せば、椅子は左に回転しようとするでありましょう。これは、角運動量を保存するために、土台が反対周りに動くのです。回転運動の場合、右回りと左回りの回転を組み合わせれば、角運動量は保存されるので、全体として無理のない動作が可能となる。前に伸ばした両腕を左右に広げても、椅子は全く動きませんね。身体の回転動作の場合に、この原理を意識するかしないかによって、結果は大きく変わるでありましょう。 新たに動くか動かないかと云う場合には、全ての力の合力を考えねばならない。ある一点に作用する力を全て足し合わせて、力の和がゼロになれば、その点は新たに動き出すことはない。力の和がゼロでなければ新たに動き出す。新たに動き出す場合には、ある大きさの力と加速度がその点に作用している事になる。この加速度によって速度の変化が生じる。速度の変化が生じると、ある時間が経過するとともに、動きの方向が変わるとか、力が作用する位置が、力がゼロの場合と比べて変化する。太極拳の場合、相手よりも早く、この力の変化、あるいは速度の変化、あるいは位置の変化を感知する事が重要となる。 太極拳では、力なき者が強い者に勝つのであるから、物理法則にあらがうような動きを咎めて、バランスが崩れたところを弱い力で圧倒するという事であろうと推察する。その為には、相手よりも鋭い感覚を磨いて、相手に先んじて相手の動きを察知することが必要と説いています(一羽不能加、蝿虫不能落。人不知我、我独知人)。
是故易有太極。是生両儀。両儀生四象。四象生八卦。 是の故に易に太極有り。是れ両儀を生ず。両儀四象を生ず、四象八卦を生ず。まず太極があって、そこから両儀が生まれ、両儀から四象が生まれ、四象から八卦が生じると記述する。両儀は陰陽を云い、八卦は小成八卦(乾 兌 離 震 巽 坎 艮 坤)を云う。 ここに引用した文言は、易経の基本的な枠組みなので、易経と関連させる様々な議論においては、この枠組みは守るべきと考える。従って、「無極から太極が生じて云々」なる議論はそれなりの論ではあるが、易経が云う太極とは別物と考えられる。 この点について参考文献9『太極拳理論の要諦』(p.104)では、
「太極は無極より生じたという解釈は、周敦頤の《太極図説》に対する王氏自身の理解である、と言えると思います。(中略)”太極”には、言わば、広義と狭義の二つの解釈があることと、王氏自身はその後者を取っていることです。ですから、《太極拳論》を勉強するに当たっては、我々も、諸説を忘れて、王氏の理解に従わなければならないということです。」として、”太極”を理解するために議論を展開している。 この議論について、二つの指摘をしておこう。 1)著者自身が言及しているが、この”太極”概念は易経の中で記述されている太極の概念とは異なると云える。その場合、易経の小成八卦を使用する(十三勢、あるいは太極拳釈名)事とは両立し難いのではないか。 2)「太極者無極而生」については「太極は無極にして生ず」と理解すれば、易経中の太極概念とは矛盾しない。又、太極拳の動きを考える上でも、不都合は生じないと思われる。王氏自身がどのように解釈していたかは、後世からの一つの見方と云えるのではないか。
無極而太極。 太極動而生陽。 動極而静。 静而生陰。 静極復動。 一動一静。 互為其根。 分陰分陽。 両儀立焉。 陽変陰合。 而生水火木金土。 五気順布。 四時行焉。 五行一陰陽也。 陰陽一太極也。 太極本無極也。 五行之生也。 各一其性。 無極之眞。 二五之精。 妙合而凝。 乾道成男。 坤道成女。 二気交感。 化生万物。 万物生生。 而変化無窮焉。 惟人也。 得其秀而最霊。 形既生矣。 神発知矣。 五性感動。 而善悪分。 万事出矣。 聖人定之。 以中正仁義。 [聖人之道。仁義中正而已矣。] 而主静。 [無欲故静。] 立人極焉。 故聖人與天地合其徳。 日月合其明。 四時合其序。 鬼神合其吉凶。 君子脩之吉。 小人悖之凶。 故曰。 立天之道。 曰陰與陽。 立地之道。 曰柔與剛。 立人之道。 曰仁與義。 又曰。 原始反終。 故知死生之説。 大哉易也。 斯其至矣。 無極にして太極。 太極動いて陽を生じ、動くこと極まつて静なり。 静にして陰を生じ、静なること極まつて復た動く。 一動一静、互に其の根と為り、陰に分れ陽に分れて両儀立つ。 陽変じ陰合して水火木金土を生じ、五気順布し四時行はる。 五行は一陰陽也。 陰陽は一太極也。 太極は本無極也。 五行の生ずるや、各其の性を一にす。 無極の真と二五の精と妙合して凝る。 乾道は男と成り坤道は女と成り、二気交感して万物を化生す。 万物は生生して変化窮まること無し。 惟人のみは秀でたるを得て最も霊なり。 形既に生じ、神発して知る。 五性感動して善悪分れ、万事出づ。 聖人は之を定むるに中正仁義[聖人の道は仁義中正のみ。]を以てし、而して静[欲無きが故に静]を主として人極を立つ。 故に聖人は天地と其の徳を合せ、日月と其の明を合せ、四時と其の序を合せ、鬼神と其の吉凶を合す。 君子は之を脩めて吉なり、小人は之に悖つて凶なり。 故に曰く、天の道を立てて陰と陽とと曰ひ、地の道を立てて柔と剛とと曰ひ、人の道を立てて仁と義とと曰ふ、と。 又曰く、始を原ねて終に反る、故に死生の説を知る、と。 大なる哉易や、斯れ其の至れるなり。朱子太極図説解から引用する。
無極而太極(無極にして太極): 上天の載は声も無く臭も無し。而も実に造化の枢紐にして品彙の根底なり。故に無極にして太極と曰ふ。太極の外に復た無極有るに非ざるなり。朱子は「太極の外に復た無極有るに非ざるなり」と断定している。『太極図説』本文には、イマジネーション豊かに「動静」を云うが、朱子の解は、易経の基本の枠組みに沿うものであろう。 筆者は王宗岳によるとされる「太極拳論」中の記述「太極者無極而生」も、朱子太極図説解の解釈の範囲内と考えて、何の不都合もないと思う。朱子の解には異説もあるようだが、色々な解釈があるのは当然の事ではある。 品彙:種類別にしてまとめること。また、そのまとめたもの。たぐい。分類。
唐豪・顧留馨『太極拳研究』(参考文献2)の記述によれば、1921年に出版された許禹生著『太極拳勢図解』の中で、彼は入手したオリジナル原稿への加筆改変を憶測によって行った。自分の旧説の非を1939年に彼は認めている。異種バージョンの特徴として次の4点が指摘できる。
1:「太極拳論」の本文に、「動静之機」が挿入されている。 2:「太極拳論」の本文に、数カ所のある一定の変更部分がある。 3:「太極拳釈名」の本文中の八門と八卦の並びが先天図に依っている。李亦畲の郝和本は後天図に依っている。 4:異種バージョンには、「武当山張三豊老師の遺論」等と記述されている場合が多い。 筆者注:張三豊は、張三峰、張三峯と記述される場合がある。こうした差異が生じた理由を推測させる記述が参考文献2(唐豪・顧留馨『太極拳研究』p.127)にあるので、抜粋翻訳して引用する。
許氏は、入手した拳論の草稿に「動静之機」の四文字を加筆挿入し、憶測で張三豊の遺稿とする記事を挿入して、1921年に『太極拳勢図解』を出版した。その後、1939年に自分の旧説の誤りを編著『太極拳』の「序文」の中で勇気を以って認めた。許禹生が旧説の誤りを勇気を以って認めた理由の手がかりと思われる記述がある。参考文献8『太極拳術』の中で、顧留馨は次のように記述する。
1932年1月初めに唐豪は陳子明に随って陳家溝に行き、太極拳史料を捜し集めた。事態の推移を年代順に並べてみよう。
1:1921年 許禹生、『太極拳勢図解』初版発行。「動静之機」の挿入と「張三豊」との関係を憶測で記述する誤りが含まれていた。 2:1925年 陳微明、『太極拳術』発行。拳論部分の文言は、武禹襄と李亦畬の原本に沿う意味で、ほぼ正しい記述と思われる。 3:1932年 唐豪は陳家溝に行き、陳式の太極拳史料を捜し集めた。 4:1934年 許禹生、『太極拳勢図解』第5版発行。誤りの訂正はされていない。 5:1939年 許禹生、編著『太極拳』出版。その「序文」の中で、『太極拳勢図解』の記述の非を認める。 6:1964年 唐豪・顧留馨、『太極拳研究』。「附考」の中で、許禹生が旧説の非を認めた顛末を詳述。1921年発行『太極拳勢図解』と1925年発行『太極拳術』とに記述されているほぼ同名の拳論の文言には大きな差異がある。研究者の唐豪は、1932年に陳家溝に赴き、検証作業を行って、全てを解明したと推定される。許禹生は旧説の非を1939年に公表した。顧留馨の「附考」が公表されたのは、唐豪没後の1964年である。 唐豪・顧留馨著『太極拳研究』が1964年に出版されたあとでも、多くの太極拳関連本に、『太極拳勢図解』の影響が散見される。唐豪・顧留馨は『太極拳研究』の中で、「妄加牽連、不値一駁(誤って関連させた妄説で、反駁する価値もない)」と、許氏の旧説に起因するごたごたを評している。 今日の著作権を尊重する見方をすれば、「許禹生は、おそらく著者がわかっている草稿を入手後に、著者として「張三豊」を示唆する文言を付け加え、更に内容を改竄して、自分の著書の中の重要部分として公表した」となる。従って、意図的な悪質な著作権の侵害とみなされる可能性がある。 唐豪・顧留馨著『太極拳研究』の「前言」の中で「王宗岳・武禹襄・李亦畬の拳論の本来の面目を回復して、太極拳の源流についての憶説と歪曲部分を訂正した」と記している。 「述而不作(述べて作らず)」(論語)は中国の古い言葉であり、引用転載自体を適切に行えば、伝統的な手法とも云える。 関係する人物の生没年を付記する。 許禹生(1879-1945):楊露禅ー楊健侯の系統 陳発科(1887-1957) 陳微明(1881-1958) 陳子明(?-1951) 唐豪(1897-1959) 顧留馨(1908-1990) 主要な関係者が記載されている「太極拳主要伝逓系統表」(参考文献8から転載)を引用して、理解の一助とする。 図7. 太極拳主要伝逓系統表(参考文献8から転載)。 参考文献 1. 余功保、『中国太極拳事典』、ベースボール・マガジン社、2013年。 2. 唐豪・顧留馨、『太極拳研究』、人民体育出版社、1999年(初版1964年)。 3. 郭福厚、『太極拳秘訣精注精訳』、人民体育出版社、2015年。 4. 楊澄甫、『太極拳体用全書』、台湾逸文、2001年(初版1934年)。 5. 呉公藻、『太極拳講義』、上海書店、1985年(1936年上海鑑泉太極拳研究社)。 6. 笠尾恭二、『中國武術史大観』、福昌堂、1994年。 7. 李天驥、『太極拳の真髄』、BABジャパン出版局、1992年。 8. 顧留馨、『太極拳術』、上海教育出版社、2008年(初版1982年)。 9. 銭育才、『太極拳理論の要諦』、福昌堂、2000年。 10. 『太極拳全書』、人民体育出版社、1988年。 11. 陳微明、『太極拳術』、致柔拳社、1925年(北京科学技術出版社、2016年)。 12. 李亦畲、『王宗岳太極拳論』、北京科学技術出版社、2016年。 13. 西晋一郎・小糸夏次郎 訳註、『太極図説・通書・西銘・正蒙』、岩波文庫、1938年。 14. 郭福厚、『太極拳推手訓練秘訣』、BABジャパン出版局、1999年。 15. 楊進、『至虚への道』、二玄社、2009年。 16. 許禹生、『太極拳勢図解』、体育研究社、1921年(北京科学技術出版社、2018年、1925年再版)。 17. 許禹生、『太極拳勢図解』、体育研究社、1921年(山西科学技術出版社、2006年、1934年第5版)。 18. 楊名時、『太極拳のゆとり』、文化出版局、1980年。 19. 加藤湖山、『易経ノート』、Apple Books Store、2021年。 易経に関係する著者のweb: 太極拳釈名と易 易経の先天図八卦の並びと陰陽魚太極図 王宗岳「太極拳論」等の異種バージョンの誤謬の顛末 武禹襄「太極拳解」を読む 武禹襄「十三勢説略」を読む 「十三勢行功歌」を読む 本稿に関するご意見質問等はメイルしてくだされば有難く存じます。 2021年 著者:加藤湖山 e-mail: kozan27ho@gmail.com Copyright (C) 2021- K. Kato, All rights reserved.