信州諏訪に流された中川周防と加藤清正

 加藤清正の「又いとこ」と記されている熊本藩の中川周防は、「牛方馬方騒動」の主謀者の一人として罪を問われ、元和四年(一六一八)、諏訪高島藩にお預けとなった。三十五年を経て、周防は高島藩に召し抱えられる。
 高島藩中川家の家譜に中川周防に関する記述が含まれている。  高島藩への預かり後三十五年を経て、その高島藩に中川周防は召し抱えられたが、家督を継いだ周防の娘の孫(三輪庄太夫の三男)が十六歳で病死したために、中川家は断絶してしまった。こうした事情があったので、縁続きの三輪正貫が再仕官する時に、名前を「中川」と改めるように命が下されたと記される。幕府からの預かり人を召し抱え、その家が絶えるや、親族に命じて家を再興させたという事実から、高島藩では中川周防を高く評価していた事がうかがえる。
 中川周防の名前は、現在に伝わる江戸時代史料の中に垣間見えているので、紹介しよう。
 肥後熊本藩祖加藤清正が亡くなった時(慶長十六年、一六一一)、おそらく遺言に近い形で、加藤家の重臣の二十人が江戸に人質を差し出す事を命じられる。その詳細が「続撰清正記」に記述されている。中川周防の熊本藩内での立場を示す資料の一つと思われるので、全文を引用する。
家来の者共の書立の事
筑後堺南関城代 清正いとこ聟  加藤美作
豊後堺阿蘇城代         加藤清左衛門 (後右馬丞と云)
日向堺矢部城代 清正又いとこ  加藤萬兵衛(後越後と云)
熊摩堺佐敷城代         加藤與左衛門 
薩摩堺水俣城代 清正いとこ聟  中村将監
宇土城代    清正又いとこ  中川太郎平(後豊後と云)
八代城在番   清正いとこ聟  田中久太夫
熊本城留守居の者共 清正いとこ 中川壽林
                下川又左衛門
肥後國中知行方其外萬奉行 清正又いとこ 其上いとこ聟 中川周防
                加藤平左衛門
先手三組の備大将
一番備頭            井川金右衛門(後志摩と云)
二番備頭            吉村橘左衛門
三番備頭            和田勝兵衛(後備中と云)
 清正内義の妹聟 但たねかはり 成田彌兵衛
 清正内義の妹聟 但腹かはり  森本左近
                庄林隼人
                森本儀太夫
                飯田角兵衛
                三宅角左衛門
     已上
  慶長十六年七月晦日     下川又左衛門
                加藤與左衛門
                加藤清左衛門
                加藤美作守
    青木金兵衛殿
  右二十人の者ども人質を出し、在江戸させ申すなり。
 この引用の中に中川周防と主君の清正との関係が記述されている。則ち、周防は「清正の又いとこ」であるとともに、「いとこ聟」でもある。更に、周防の父と云われる中川壽林は「清正いとこ」と記されている。加藤清正の家臣の中には、加藤姓を名乗る者が多くいる。勲功が大として主君清正からその姓を賜った家臣もおり、尾張以来の加藤一族の家臣もいた。中川家もそうした一員の可能性が高い。清正の母方の系図は複数存在するようだが、本稿では『古代氏族系譜集成』を参考にして、ここでは、さらに、「清正いとこ」及び「清正の又いとこ」を想定して、清正と中川周防との関係を示したのが、次に示す略系である。
 この系図によれば、清正の母と豊臣秀吉の母は姉妹なので(他説もあり)、清正と秀吉はいとこの関係となり、関兼吉を祖にして、秀吉、大政所、清政、そして中川周防が繋がっている。
 周防は寛文六午(一六六六)に預かり先の諏訪の地で亡くなる。相当の長寿と仮定して享年八十とすれば、藩主清正が亡くなった慶長十六年(一六一一)には二十五歳である。弱冠二十五歳にして「肥後國中知行方其外萬奉行」を勤めていたわけであり、それは彼が主君清正と近い親戚関係にあった故であろう。元和四年(一六一八)に、中川周防は「三千石で奉行役」と記録されている。
 
  図:中川周防と加藤清政:豊臣秀吉との関係 中川周防と加藤清正