元禄赤穂事件・忠臣蔵の主役四人の系図をつなぐ
江戸時代中期に起こった元禄赤穂事件には、四人の主役が登場する。吉良上野介義央、浅野内匠頭長矩、大石内蔵助良雄、そして将軍徳川綱吉である。この四人の主役は、徳川の血脈を受け継いでいるという点において、相互に遠戚関係にあるようだ。そうした不思議な因縁を紹介しよう。但し、系図であるからDNA的にどうこうという議論でない事は勿論である。
吉良家は、室町時代の覇者となった足利氏の分家であり、江戸時代の大名の中でも高い格式を誇った家系であった。同じく足利氏の分家であった今川家が新興勢力の覇者となる織田信長に滅ぼされた事に象徴されるが、衰退期に入った古くから続く家系である。それ故に、禄高は低かったが、格式を強調したと言えるかもしれない。戦乱の時代の政略結婚であろうか、吉良家は松平家から嫁を迎えている(家康の祖父の代)。
一方、浅野家の養女(豊太閤政所)が秀吉と結婚した縁が、その後の浅野氏栄達の要因となる。秀吉の出世と共に、ほぼ順調に出世した新興勢力である。豊臣から徳川への時代の変転にもうまく対応したと言えるだろう。浅野家は徳川に繋がる松平家から嫁を迎えている。なお、ここに示した系図には引用していないが、内匠頭から四代の祖浅野長政の祖母は水野下野守信政女という系図が存在する。水野下野守信政の娘の一人は、松平広忠に嫁ぎ、家康の母となる。従って、この縁からたどっても浅野氏と徳川氏は相当に近い遠戚関係となる。
大石内蔵助から四代さかのぼる良信は関白秀次に仕えていたが、秀次の失脚で浪人する。おそらく豊臣が接点となって、子の大石良勝は浅野長政の三男長重に仕える。大坂夏の陣で功を上げ、浅野家家老に抜擢される。良勝は、忠臣蔵の大石良雄の曾祖父にあたる。良勝は息子の嫁を徳川家の重臣鳥居氏から迎える。この嫁の縁を辿ると、重臣と主君の縁組みという縁で松平氏に系図上は繋がるが、DNA的には繋がらない可能性が高い。
このように、出自も異なり、別の世界で生きて来た元禄赤穂事件の吉良・浅野・大石の三家系の間には、一見関係はなさそうだが、以下に示すように江戸時代の覇者徳川氏(松平氏)の家系を軸にして、これら三者の間には関係がある。従って、徳川将軍綱吉とも遠戚関係にあった。
- 吉良氏は、義央の四代前の義安が、松平宗家松平清康の娘を嫁に迎えている。その子の義定の母は松平清康の娘の俊継尼とされているので、清康の孫になる家康とは従兄弟関係となる。義定のひ孫が上野介である。
- 浅野長重(浅野長政三男、笠間藩主)は今川義元の妹を嫁に迎えた竹谷松平家(三河吉田藩)の娘を嫁に迎えるので、今川氏と繋がると同時に、松平氏とも繋がる。竹谷松平家は松平信光を起点として松平宗家から分家した。長重の長男長直の母は三河吉田藩主松平家清の娘と記述されている。長直の孫が長矩である。
- 浅野藩家老の大石家の当主は、藩主家との間に婚姻関係が生じていない。これは、大石良雄の曽祖父良勝が浅野長重に新たに召し抱えられ、その時点からの歳月が短い事が理由の一つであろう。なお良勝の次男は藩主長直の娘を妻に迎えている。
- 大石良雄の祖父良欽は山形藩士鳥井忠勝の娘を妻にした。忠勝は鳥居元忠(関ヶ原の直前に伏見城にて討死)の四男である。元忠の正妻は形原松平家の娘であるが、忠勝の母は馬場美濃守氏勝の娘と記されている。忠勝の妻は信州諏訪高島藩主諏訪頼水の娘であり、徳川家重臣本多康重の孫娘にあたる。本多康重の母は東条松平家義春の娘である。東条松平家は松平長親を起点として松平宗家から分家した。但し、忠勝の妻となった諏訪頼水の娘の母が、本多康重の娘であるかについては、記録が見つけられないので、判然としない。
従って、松平氏との関係をみれば、吉良氏は松平宗家第七代清康、浅野氏は第三代信光、大石氏は第五代長親の流れを汲む。故に、松平信光を起点として、吉良上野介、浅野内匠頭、大石内蔵助の家系が繋がる。ここに記した関係は、当事者の間に意識される事はおそらくなかったと推定される因縁であろう。
本図の上の部分は信州高島藩主諏訪氏に関するものです。
- 本論に関するご意見質問等はメイルしてくだされば有難く存じます。
著者:加藤湖山
e-mail: kozan27ho@gmail.com
Copyright (C) 2013- K. Kato, All rights reserved.